畳のタイムカプセルから現れた古新聞について

安曇野市明科にある「堀内畳店」さんとのコラボ企画

3点の古新聞をお借りして、そこから店主がインスピレーションを受けた本を展示いたします。

古畳の中からときどき古い新聞が出てくるのだという。明科にある堀内畳店ではこの新聞紙を保管している。
なぜ新聞が入っているのだろうか。除湿のため? 実をいうと新聞紙にはそれほど長期の除湿効果はないのだという。
するとその当時の畳職人がなんらかの意図を持っていれたと考える方が妥当だ。記念かまたはなんらかのメッセージがあるのかもしれない。何十年かの時を経て、わたしたちの目の前に再び現れた新聞紙たちはある種の奇跡を身に纏っている。あたかも、古代の墳墓から発掘された当時の日用品と同じだ。
そこにあるのは、時の浸食の抗えない残酷さと、時代が変わろうとも変わることのない人々の生の名残。
これらの品々を感慨をもって鑑賞するのも悪くないのではないだろうか。記事にある当時の営みに思いをはせるのも良し、破損した自然の作る形の妙を見るのも良し。

*芥川全集予約受付

〜活字の力強さ〜
芥川龍之介は1892年3月1日に生まれ、1927年7月24日に亡くなった。享年35歳。
「人生は一行のボードレールにも如かない」と『侏儒の言葉』のなかにあったと記憶するが、これがほんとうなのかどうかいまだに分からない。
記事は芥川龍之介の全集の発売を知らせる一面を使った広告。いまどき全集の発売でこれほどの宣伝はできないだろう。村上春樹全集とかならあるかもしれない。
なによりも目を引くのが、活字の力強さ。直球勝負。ことばのもつ強さがここにはある。書を鑑賞しているような気がしてくる。

*これが月の裏側

〜月の裏側についていったいどれだけのひとが確信をもって語ることができるのだろうか?〜
実際に見たことのないものについて、わたしたちはいったい何を語ることができるのだろうか。何を語ることが真実といえるのだろうか。
行ったことのない地球の裏側の土地について語ること。地下にあるなぞの帝国について語ること。鏡に映った自分について語ること。
この不確かさは、まるで儚い物語を語ることと本質的には同じなのではないだろうか。
われわれがどれだけ進歩したと思っていても、世界にはまだまだあやふやが溢れている。
けれどもこのあやふやが物語を作り出してゆく。
ならば確かさや正確さを求め続けるのではなく、もっと積極的にあやふやさと戯れてもよいのではないだろうか。

断末魔の南京決死潜入

〜ある出来事を正確に伝えることは可能なのだろうか〜
世界は出来事に溢れている。
何かひとつの出来事が起きて、それを誰か他人に伝えようとすることの困難さ。百万語費やしてもその出来事を正確には伝えられないのではないだろうか。いわんや真実をや。
百回うそをつけば真実となる、と狂った軍人は言っていたが、どれほどその出来事の真実を伝えることが難しいと逆説的に証明している。
けれども、もしかすると、百回のうそによってひとつの出来事の真実が伝わるのかもしれない。わたしたちは誰ひとり同じでなく、それゆえ誰ひとり同じ出来事を共有できない。それゆえにかなしいうそが必要なだろう。

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