舞台「文豪とアルケミスト 綴リ人ノ輪唱」の感想

配信で初日夜の部を見ただけですが、メモがてら書き残しておきます。
役に立つような内容はないです。
(ネタバレを多く含むのでご注意ください)

・コロナ禍で興業できず存在否定もされた舞台演劇

 「文豪とアルケミスト 綴リ人ノ輪唱(以下文劇3)を鑑賞するに当たって、前提となるのが「コロナ禍で上演された作品」であること。劇場は感染症が蔓延する環境「三密」であることや、ある演劇でクラスターが発生したことで舞台演劇は冷たい目で見られていた。緊急事態宣言で「不急不要」の対象となり多くの演目が中止に追い込まれた。演劇を生業とする人がどれだけ苦しかったかは容易に想像できる。
 文劇3自体も感染症対策を徹底し、売り出された席はキャパシティの半分、演者もマウスシールドを着けて演じることとなった。
 今まで全公演の最終日のみだった配信は大幅に回数を増やした。個人的にはその点はありがたかったし、なかなか遠出ができない人もリアルタイムで楽しめたのは良かった。

 稽古も難しかったはずだが、気の利いた演出を多用して演目として素晴らしいものができていたと思う。文劇の魅力は縦横無尽の殺陣やアンサンブルの表現力だが、全員が素晴らしいものを見せてくれた。殺陣の割合は減ったように思うが、文豪の戦いは物理的な戦いだけではないので質が落ちることもなかった。

・衝撃的なストーリーと結末

 しかし、大きく違ったことがあった。含まれたメッセージと結末。前2作は苦しみながらも文豪達が勝利し、観覧後の感覚は爽やかなものだった。エンターテインメント性が高めだと個人的には思っている。
 文劇3はテーマがまず重い。「戦争に利用されてきた文豪」の話が出てくる。プロパガンダという言葉が飛び出したときは耳を疑った。聞いたのはガンパレード・マーチ以来だろうか。「戦意高揚」を意味する、ゴリゴリの戦争ものに出てくるような単語だ。何の話をしてるんだと、まず館長がひたすら怖かった。
 太宰が館長の言葉に振り回され、他の文豪が否定すればそれにも影響されと、翻弄されているのには少し違和感があった。「文学は酸素」と言い切った彼とは思えなかった。想像ではあるが、彼は文学ファンの代表という役割を担い、館長(国)と文豪(作家)の言動に振り回されてしまうという演出だったのかもしれない。自分に関係ある文学だけ後に残ればいいという思考も、娯楽を享受する人々が勝手に行う「選別」を思わせた。コロナ禍でも「この状況下を生き残れないものはなくなっても仕方ない」と言ってのける人は少なくなかった。
 そして館長は全体主義を推し進めるために文学を消したがっている「敵」だと発覚する。太宰は負の感情を撒き散らすように誘導され、文豪達は館長と戦うも1人ずつ亡き者にされていく。仲間の目前で。没年の順番に。全体主義によって、文豪達にもたらされた2度目の死。太宰だけは一時的に復活をして一矢報いたが、結局は図書館の瓦礫に埋もれることとなる。
 転生の機会は再び訪れ、太宰は躊躇わず光の中に飛び込む。そこで芥川と再会することにはなる。1作目の冒頭と同じ形で。しかし、バッドエンドの予感は拭えない。後味はいい物ではなかった。
 戦時下で自由な文学は規制や自粛に追い込まれ、国や出版社の意思で戦意を高揚するものが多く作られた。北原白秋を中心に、多くの作家が加担した。世情に翻弄されて自由に演劇を作れなくなった、制作側の苦しみがそれらの史実に重ねられていた。

・よくも文アルでやってくれたな

 見出しは8割が賞賛で2割が恨み言である。
 原作がある作品で、こういうことをよくやろうと思った。いいぞもっとやれ。文アルは作家の2度目の人生の物語だ。文豪の本当の魂はどこか高次元な場所にあって、それをアルケミストの力でコピーしてミームと一緒にこねて再構築して図書館に出力したようなものだと個人的に思っている。きっと出力品が壊れようと、作品が愛され続ければ文豪の魂は削れもしない。文学があれば何度だって転生できる。
 そんな存在なのでまた文学のために命を賭けて欲しいし、彼らが生きた時代の話を現代と重ねるのは大歓迎だ。北原の叫びで心が震えた。翻弄される太宰が愛しかった。再び師匠と親友に先立たれた室生の姿に心が痛んだ。人生だった。文学だった。エンターテインメント性は薄れたが、傑作だと思っている。

 一方で、原作があるのにこんなにも制作側の思いを載せても良かったのだろうかと思う。二次創作的に言えば「オリジナルでやれ」案件じゃないかと。もし文アルではない他の作品の舞台で同じようなことをやってしまったら。いや、文アルだからできたことだとは思う。ただ、自己解釈と自己投影を暴走させたメディアミックスが作られたら……ほとんどは駄作と見なされる。制作サイドが大量に改変した、あり得ない結末にした、推しを贔屓した、嫌いだからと死なせた、というメディアミックスも数え切れないほどある(ガンパレード・マーチのアニメはそうだった)。
 その点で、文劇3はかなり危険な橋を渡っていると思う。私は好きだ。かなり受け入れられているとも感じている。多くの人が語らずにはいられないほどものを残した作品である一方、同じくらいに人を傷付けているだろう。

 文アルは題材が私たちと近い。神や精霊でもなく、王や勇者や武将でもなく、船や武器の擬人化でもない。文豪は言葉を巧みに操る人々だが、私たちのように悩み苦しんで現実を生きてきたのは変わらない。プロアマ問わず、創作の痛みを知っている人ならより近く感じる。そんな人々が身近で重いテーマを表現しているのは、あまりに迫りすぎて拒絶する人もいるのではないだろうか。娯楽として見に来たのに、現実の話を延々とされた。こんなはずじゃなかったと思うだろう。賛否両論は仕方ない。ただ、そんな賛否の意見も面白いとは思う。

 そんな近い人々をさくさく殺していくメディアミックスについて、恐れを知らないなとも思う。文アルファンの間では御法度になっている死因いじりも頻繁にやっている。子孫の方や文学館記念館の関係者も見ているんだけども。

・最後に言わせて

 文アニで負った傷が、文劇3でまた痛み出しました。
 どうしてくれるんですか本当!!!
 12話視聴後の状態に近いんですけど!!!

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