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寂しい理由、結局それだった

純度100%でお祝いできない私が嫌になる。
というか、お祝いできると思ってた。FCで報告を受けた時はそれこそおめでとうの気持ちが強かった。幸せになってほしいって祈った。
でも、時間が経つにつれてじわじわと寂しさが込み上がり、翌日ふとした時に寂しさが涙として表に出てきた。朝起きて頭が働いてない時とか、買い物帰りの歩いてる時とか、溜めてたドラマを見終わった後とか。無の瞬間にそいつはボロボロ出てくる。ほんと、厄介だった。

今、私がどんな状態なのか、誰かが言ってくれたら安心できるのに。
例えば体を痛めて病院へ行き、先生から病名と原因を教えてくれるような。
例えば勉強に行き詰まって塾へ行き、先生から解き方を教わるような。
今の私は、分かることと分からないことの間であっちこっちしてる。加藤さんに対してのおめでとうや祈りも理由は言葉にできるのに、寂しさや揺らぎの理由が言葉にできない。
この一週間、私の中の病院や塾に行ってみたけど、先生はそこにいなかった。

おめでとうは、無数にある選択肢のひとつを選べたことへのおめでとう。選びたいのに選択肢そのものがない、選びたくないのに選択肢を押し付けられる中で、こうしたいと望むことを選べて良かったって思う。本当に。
祈りは、これからもっと幸せが訪れますようにって祈り。選んだ道の先が幸せであってほしい。この道を選んで良かったって心から思える日々であってほしい。悲しいことや辛いことはなるべく少なめに、それ以上の幸福が加藤さんの元へやってきてほしい。これも本当。

じゃあなんでこんなに寂しいのか、心が揺れるのか。その理由がうまく言えない。

加藤さんの番だと、今週更新されたNEWSRINGを読んだ。加藤さんが紡ぐ言葉が読みたかった。
ハラハラするけど微笑ましいエピソードにほっこりしたし、ファンだけが読める加藤シゲアキの文章だなってくすぐったくなった。「身体も心も温めて」と心よせてくれて、「ではではまたね!」の一文に、ああ、会いたいなって胸がギュッとなった。
今週出演した番組もレギュラー番組もいつもと同じく録画した。インド旅行の写真が載った雑誌も買った。持ってるライブ映像も見たいし、NEWSのツアーが発表されたら応募したい。作家としての作品も発表されたら読みたい。お芝居をするなら観に行きたい。

でも実際、番組はまだ見れてないし雑誌も開けてない。ライブの映像は引き出しの中。朝、電車に揺られて聴くあの曲も、帰りながら聴くあの曲も、聴きたいのに今は聴けない。
それはきっと、寂しさや心の揺れからきている症状だ。見ると寂しい気持ちがまた膨れ上がってしまうかもしれない。今までと同じように受け止められないかもしれない。そんな私が嫌でこわくて手が動かない。
ただ、本当は早く番組が見たい。雑誌も読みたいし曲も聴きたい。ライブ映像を見て心を踊らせたいんだ。

なんでだろう。

すきだからか。

そうだよ。私は今もすきだから。

もういいかって落ち着けたらここまで寂しくなってない。すきよりも無関心が勝っていたら悩んでないし、こんな文章書いてない。私はまだすきで、どの活動も応援したい。
だからこそ揺れる。加藤さんを“すき”だと応援していいのかぐらぐらする。許可なんて必要ないし、すきの種類が違うのはもちろん分かってるけど。

純度100%でお祝いできる私でありたかった。おめでとう、と心から言える私になりたかった。恥ずかしいから泣きたくなかった。でもできなかった。
真っ直ぐなおめでとうが言えなくてごめん。寂しくて涙を流してごめん。加藤さんに、本来なら抱く必要のない申し訳なさを抱かせてしまって、晴れやかな気持ちだけにできなくてごめんなさい。優しくて、痛みに寄り添えて、想像力豊かな加藤さんだからこそ、複雑な気持ちを抱かせてしまってごめんなさい。

どうしたらそんな気持ちを抱くことなく、加藤さんが過ごせたんだろう。加藤さんが別の人生を送っていたら違っていたのかな、なんて一瞬考えたりもした。でもそれは違う。「アイドルじゃなければ」なんて私を慰めるために加藤さんが選んだ道を変えちゃうのは、それがたとえ“もしも”の世界でも想像するのは違う気がした。
いや、それよりも。今の加藤さんじゃなければ。歌って踊って、書いて、演じる加藤さんじゃなかったら私が寂しい。加藤さんがステージの上に、本の中に、そこにいてくれないのはもっと嫌だ。
そしてできれば、できる範囲でいいから、これからもそこにいてほしい。あなたと、あなたがつくる世界がだいすきだから。出会えたことへの後悔がひとつもなくて、出会えたからこそ知った色も音も感情もたくさんあるから。

だからやっぱり、加藤さんがこの道を選んでくれたことへの感謝しかなくて。どうしたらって考えてもこの世界線で会えてよかったって思うし、だからすきになったんだし、これからもそこに“加藤シゲアキ”としていてほしいと願ってしまう。綺麗事を並べたって、結局私はわがままだ。

すきだから寂しいし、応援したいから心が揺れる。
ただ、原因が分かっても原因を排除したくない。
治らなくていいから、ちょっとずつ、症状を抱き締められるようになれればいいな。

あっちこっちいきながらも寂しい理由が最終的に“すきだから”になっちゃうのちょっと情けないなあ。もっと明確な理由があればカッコよかったんだろうけど。結局輪郭がなくて曖昧なものが理由だったよ。
でもこれはあくまで私の場合であって、祝福している方も悲しみの海に沈んでる方もいることを忘れたくない。すべてに配慮はできなくてもそういう方がいること、気持ちの色が違うだけってことをおきたい。
「人間みんな同じでしょ、重さ。厚さも薄さも同じだよ」
そう教えてくれたのは加藤さんだから。


こうして考えたら、改めて加藤さんがすきだなって実感できました。書いてよかった。これで曲の再生ボタンを押せるかもしれない。
すぐにこれまで通り、というわけにはいかないかもだけど、気持ちは変わらないってことを残したくてここに置いておきます。こんな風に寂しくなって、すきだから悩んで、恥ずかしげもなく泣いて、それでもすきって思えたことを。

これからも、加藤さんの望みが叶いますように。
心も身体も健やかで、なるべく傷付かず過ごせますように。
一生とか永遠なんて言えないけど、昨日も、今日も、明日も加藤さんがすきで、加藤さんを心から応援しています。本当に。


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