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5/12「月と猫のダンス」感想と考察、音楽画集「幻燈」の解釈

夜を捜している。

※この記事は、ヨルシカライブツアー「月と猫のダンス」東京公演2日目に参加してのライブレポート、及び音楽画集「幻燈」の解釈です。ネタバレ有り。加えて、触れる箇所でも明示しますが、後半には2023年5月28日まで横浜で開催していた「幻燈展示会」、及びその展示内容に触れます。そちらのネタバレを避けたいと言う方は読まないことを推奨します。


ライブを観たあの日、帰りが夜遅くなったせいもあったが、それより熱に浮かされていた所為で、一人カラオケボックスに篭った。飲酒して数曲歌い、踊り、半端に寝て、再び帰路に就いたのは早朝。疲れた頭ではライブについての考察を深めることは出来ずにいた。数日働きながら、長い間浮かない気分でいながら、ぼやけた頭で記事を書いて少し推敲を加えて、漸く考えを纏められた気がするので、ここに公開する。

開演前、舞台装置について

舞台上にあるのは、海辺の部屋を模した背景と内装、中央にはアップライトピアノにキャンバススタンドいう、豪華だがわかりやすいセットだった。
ピアノに照射されたスポットライトが、水面から差す月光に似ていると感じた。

開演

“Written by n-buna”という表記がモニターに映し出され、劇が開始される。筆者のヨルシカライブの遍歴として、盗作、月光再演、そして前世2023に参加してきたが、今回の導入には新しさを感じた。
ステージ中央には椅子に座る画家。キャンバスに向かって、苦悩の滲んだ仕草で筆を動かしている。画家は自身の作品に面白味がないことに悩み、スランプに陥っている。
月と猫のダンスのサイトを見ればActorの文字があるように、今回のライブはn-bunaさんの朗読ではなく、俳優の朗読と演技で物語が進んでいく形式だった。
さながら舞台を観ているようだった。幻燈という画集のコンセプトを読み解いて行くように耳を傾けて、演劇に目を向けた。

セットリスト

ライブに於ける各楽曲と所感から。

・ブレーメン

前世のときと似て、動物たちが行進するような映像が流れていた。しかし今回のライブに寄せて、出てくるのは「踊る動物」に描かれる9匹で、それに少し意味を感じた。「僕のことを笑ってんのか?なぁ」「死ぬほど辛いなら逃げ出そうぜ」の歌詞が、呼び掛けられるように身体に入ってくる。コーラスのパドドゥの部分を殆ど皆で歌っていて、原曲ではフェードアウトするところを、今回はアレンジで最後まで歌って締めていたのが良かった。

・又三郎

今回のセトリでは随一のロックで、陰鬱とした閉塞感すら感じられるAメロから、徐々にギアを上げて行き、サビで一気に解放されるのがまさに又三郎といった感じで良かった。音響の所為もあるのか、AメロBメロは若干ギターの音が外れていたように思えたが、それは意図的かもしれず、それすら演出として成っていると思えた。こちらはライブでやるのは初めてだったが、どっどどどどうどのコーラスが原曲より強くて良かった。観客が思ったほど乗っていないのだけ残念だった。筆者は身体を揺らした。

・老人と海

譜を運ぶカナリアの朗読が明けて、この曲が入ってくる。頭蓋骨という殻の外へは決して出て行けない想像力が、しかしその外を目指そうと、海の向こうを目指そうとする。そのテーマを掬い上げるように歌い上げていた。音源を再現するように随所に波の音を思わせる効果音が仕込まれていたのが、想像を豊かにしてくれて良かった。

・さよならモルテン

イントロを聞いて衝撃的だったのは、思ったよりも序盤で演奏されたことと、そもそもこの曲をやってくれたことだった。今回のライブはいつにも増して予想がし難い曲順、選曲であったように思う。老人と海から、海を超えた先の遠い国での物語という印象。昔に親しかった誰かが、今でも創作をしているのを見て、胸が詰まる。それはここでは個人的な体験かもしれないし、創作への内的なイメージかもしれない。

・都落ち

言葉の美しさそのものと、メロディとの調和が際立って聴こえた。それでいながら和風になり過ぎず、聴き易い印象であった。suisさんがしっかり咳払いをしていたのが有り難かった。「恋ふらくはあから引く頬の寄せ消ゆ波の花」n-bunaさんのコラムを読んでしまっていた筆者は、この一節を妙に意識した。画家の元恋人への思いと、この一節に妙な繋がりを覚える。

・パドドゥ

音楽画集「幻燈」を読んでしまったので、この曲が男女の踊りを歌っているとともに、その別れを示唆していることを筆者はわかっていた。一小節づつ思い出すように絵を描写するように歌い上げる歌詞から、サビで一転して感情の波が溢れる歌い方になるのが、ライブだとより際立った。2番の「胸を焦がせ」のところは特に切なさを纏っていた。またこの曲はさながらバレエ音楽のように、静かに三拍子を取る場面があって、そこから曲調を戻してラスサビに入って行く展開が綺麗で、迫力を帯びていた。ライブで頭を揺さ振られるのには十分過ぎた。

・チノカテ

実は筆者が幻燈で一番好きな曲はこのチノカテで、実は移動中や朝から物販列に並んでいる最中にもジッドの「地の糧」を読んでいた。原作となったその思想書の内容とは別にしても、やはりメッセージのある歌詞をしていて、「貴方の夜をずっと照らす大きな光はあるんだろうか?」でスクリーンに月の光が映し出されていたのが、解釈と合致していて良かった。筆者は何故か、自分が励まされているような、背中を押されているような気がした。

・月に吠える

複雑ながら合わさっている伴奏が良かった。また陰鬱な歌詞とメロディをsuisさんが生で歌い上げているのが観られ、この曲の真骨頂を目にすることが出来た、と思った。特に「嗚呼、皆おれをかわいそうな病人と、そう思っている!」の歌い方が、彼女は病人に憑依しているのか、それとも本当に病人なのかわからないような、原曲よりも深みのある底知れない歌い方で良かった。アウトロのリフの、締めとなる一音がピシャリと決まっていて格好良い。あとはn-bunaさんの咳が終始、卑猥だった。

・451

月に吠えるが終わると、舞台上は暗闇に包まれ、それでも確かに変な男がその身体を解しながら舞台前方へと歩いてくるのが見えた。ボーカルの人は向かって左側へと少し避けていた。
赤いライトアップ。燃える本の映像。「あの、」という歌い出しから筆者は確信を得るとともに、歓喜で胸が暴れ、燃え上がった。舞台中央には身体をくねらせ腰を振って腕を上げ下げしながら踊る変な男──n-bunaさんが、そのハスキーな声で情熱的に怒声を上げるように歌っていた! 筆者の身体の揺れが最高潮になる。身体を揺らしてはいない前の席の観客たちも、胸の内で熱狂していることが見て取れた。左でリズムに乗るように頷いていたsuisさんすらも、n-bunaさんを肯定し、彼のオタクをしているようだった。サビの「燃やして」で炎が一層燃え広がる。横でオタクをしているsuisさんが低音で最高のコーラスを入れる。1番のサビが終わるとn-bunaさんはオーバーヒートしたようにジャケットを脱ぎ捨て、印象的な歌詞を歌い上げる。「ほら、集まる人の顔が見える」音源を初めて聞いてから、これをライブで聞くのが待ち遠しくてならなかった。と、次のフレーズでn-bunaさんが歌詞を外す。「俺の蒔いた炎の意図を探してる」この歌詞を、「俺の蒔いた炎の意味を探してる」と間違えていた。それがライブならではであると同時に、それでも意味合いは通っているのがあって、彼の意図や思考について考察をするオタクとしてはそれを寧ろ嬉しく思った。またそういった煩悩も、2番サビの「あぁ面倒くせえ さぁ燃やして」で全て灰と化すようだった。リアルタイムに、作っては消費され、また作っては破壊して、創作を楽しんでいた。ラスサビ前、「触れて 消して」を吐息多めに歌うのが妖艶で、「奥の奥に燻る魂に」は音源以上のクオリティで、滑らかさを保つままがなっていた。どこからそんな声色が出るんだ? 貴方の喉の真下にも神様はいるじゃあないか。

以下は自傷の切り傷なんかよりも余程ディテールが深いため、人目に付く訳にはいかないと思い、月猫のライブから1日絶たない内に非公開のアカウントでツイートしたツイート集。ライブ直後の熱を帯びているため残すが、人が見るべきものではない(万が一もし仮にn-bunaさんがこの記事を見ていたとして、この先の欄は絶対、何があっても見ないでくれ!!!)。

・ナブナさん、えっちすぎるよ……

・これはマジでそうなんだけどナブナさんともうえっちしたい

・今n-bunaで検索すると1/6ぐらいでエロいって出てくるのもうオタクの性癖というか人間の感性そのものがえっちしたいって言ってるじゃん

・いいねえ〜〜

・今だけはティックトックでナブナダンス(8割は人間のバグで覚えられてもいない、捏造された記憶と構造の違う身体の紛い物で、あれほどの物は俺には出せない)を公開したい気分だぜ

・ふせったーとかを使うのが面倒すぎて、ふせったーでも言わない方が良いようなことばかり裏垢で言っちゃうな

・ナブナさんえっちしよ

・俺はナブナさんと性行為をしたいわけじゃない

・君の蒔いた炎の意味を探してる

・(451のとき前の人が超ノリノリ身体揺らしてたというツイートのスクショを上げて)これおれだったらどうしよう…
ナブナさんの夢女子である事実は変えようがなくても、その事実を観測されたくはない…

・月に吠える→451の順番は幻燈と同じで、少し予想は出来てたんだけど、それでもナブナさんが身体解しながら前に出て来て赤いライトアップに照らされたイントロはもう跳ねるしかなかった

・月と猫のダンス、月に吠える→451は官能小説よりも官能的で、たとえば「嗚呼、皆おれをかわいそうな病人と、そう思っている!デーンデーンデーンズンタッズ「かはっ」(ビクビク)」、「奥の奥に燻る魂に(キュン♡キュン♡)」、「え、妬けるほど愛して(ビッ……クン…!!、!♡♡♡)」

・(なぶなぶ卑猥だった、と表現するツイートを見て)👈これ以上に人間の内なる想像力が頭蓋骨と云う殻をを打ち破ろうとする表現ってこの世にあるのか?

・猥褻を超えて卑猥ですらあるんだよな、うんうん

筆者のツイート

・いさな

明確に男女の別れについて取り沙汰した朗読パートを終えての曲。白鯨にも似た「あなた」を一つ一つ描写していく歌詞。スクリーンに写った窓やソファー、幻燈の絵を元にしたもので、画家の部屋の一角を写し、そこに魚が泳いでいる様を映像にしていた。絵にあったソファーに横たわる女性はもうそこにいなかった。女性のいない部屋に、「もう自分を許して」という声は響いていた。海の雄大さをそのまま表したようなメロディで、水圧に浸りきるような深さの表現で。

・雪国

「国境の長いトンネルを抜けると雪国は
 底冷えの夜の静けさを白く帯びている」
皆さんはこの歌詞に何を思いましたか。初めに幻燈のトレーラーが上がったときにそれを筆者は視聴して、非常に大胆かつ丁寧な言葉選びだと思いました。
川端の雪国の書き出しはあまりにも有名で、やはりヨルシカが楽曲として出したこの雪国にも、その語彙の一つ一つが繊細に有機的に置換され、生かされている。雪国と言えば、その夜の底の白さ、深緑の季節の回想、そしてラストシーンの鮮やかな徒労の色が印象的だったので、そういった物語性がこの楽曲にも反映されるのかと想像した。けれども幻燈の発売日に歌詞を見て、聴いて、良い意味で裏切られ、そしてその歌詞観に没入した。
その体験をより色濃く、過度に白んだ空気で浴びせ掛けるのが、このライブの「雪国」だったと筆者は思う。映像を背景に、語彙の一つ一つが歌詞として綴られて行く。そうして画面に歌詞の全文が映し出される頃には、雪国の冷えきった情景が、誰かと誰かの関係に置き換えられている。
「国境の長いトンネルを抜けると僕たちは
 底冷えの夜の静けさを白く帯びていた」

・夏の肖像

このライブが第二章の「踊る動物」をテーマにしていることはどこかで明示されていたが、第一章の題は「夏の肖像」で、もしかするとこの曲はやらないんじゃないかと薄々思っていた。雪国との間に、寸劇を経て第五夜のインストが入ったこともあって、完全に意識しない状態でこの曲を迎えることになった。リズムを取る指鳴らしが入り、夏の陽気が鮮やかに浮かぶ。山頭火の俳句を元にした詩が耳障りの良い旋律に乗る。踊る、落ちる、さよなら、花火、火、茜、風のお祭り、どこかで耳にした覚えのあるフレーズ。流れるように綴られるそれらの中で、「あぁ僕らずっと一つじゃないの」と絞り出すような切な言葉が嫌に刺さる。しかしそれも、雨のような木漏れ日に流されて行く。

・靴の花火

筆者がヨルシカを聴き始めるフックとなった曲はこの「靴の花火」だった。宮沢賢治のよだかの星を元に作られた曲で、文学モチーフである点で幻燈のコンセプトに沿っている。再録されるにあたって夏草のそれと変わった点が幾つかあって、中でもsuisさんの歌い方が可愛くなっているという意見を良く目にした。筆者はそれはある種の幼さの表現だと考察していて、それが転じて夜鷹の弱々しさの描写になると解釈している。背景の映像には大気圏を抜け出す動物。n-bunaさんの高いギターソロがそれに重なる。よだかは落ちているのか昇っているのかもわからぬほどに、どこまでも行き、やがて燃える星になる。

・左右盲

生活音の表現、おぼろげな描写、キタニタツヤのコーラス、左右盲はいつかのライブと変わらぬようでありつつ、また違う温かみが確かにあるように思えた。曲の直前には猫の寸劇が入り、画家が頬にキスを貰う描写があった。それを思い出しながら音を吸収する。サビの声の伸びが絶妙で心地良い。幸福な王子の自己犠牲の精神、利他性、心ごと消えて行く感覚、それらの意味が目の前に転がり、しかしちゃんとわからないままに曲は終わる。拍手はなく、夜闇とも空白とも取れる静けさに、溶けるような心地良さだけが場に残る。

・アルジャーノン

沈黙の後、懐かしさを憶えるような旋律の先にこの曲を迎える。アルジャーノンはSFの古典的名作を元にした詩と構成で、公開されているMVに象徴されるように楽曲自体にも、劣等な個体の生物的な発達、開花が描かれる。そして再び眠りへと向かう様も。n-bunaさんが人生に読んだ小説の中で三本の指に入るほど『アルジャーノンに花束を』が好きであると聞いて、suisさんがこの本を読んだと言う話を、筆者は何処かで耳にした。
本来前奏のない曲なので、左右盲の後に演奏が入ったことで、この曲は来ないのではないかと一瞬思ったが、歌い出しを聞いてカチリと嵌ったような感覚があった。
特筆すべきこととして、この曲ではsuisさんの、ふだん深奥に眠っているであろう表現力が、存分に浮き上がっていた。Aメロ、Bメロの繊細さ、穏やかさも目を引くが、殊にサビの3,4,5小節目(1番で言えば「少しずつ膨らむパンを眺めるように あなたはゆっくりと走っていく」、2番で言えば「頭の真ん中に育っていく大きな木の 根本をゆっくりと歩いていく」)が、とても綺麗でありながら、出せる迫力の最大限を纏っていて、本当にそこに神様がいるかのように思えた。本当にどうやって人の喉からこの声が出ているのか、理解が追いつかなかった。今までのヨルシカのライブで(筆者の人生の中でも)、最も美しく、迫力のある歌声だったように思える。

この記事のセットリスト-アルジャーノンに書いた表現は全く誇張していないどころか、俺ごときの文章力では表現がしきれない表現だったから、上手く伝えられないのが悔しくもどかしい
俺は神秘を見たのか? とても追いつけない人とはあなたのことだ

追記:筆者のツイート

それは簡単には触れることの出来ない、神秘という言葉だけで言い終えることも出来ない、恐ろしく創造的な人間の表現だった。

/Act.1
/inst.
1.ブレーメン
2.又三郎
/Act.2
3.老人と海
4.さよならモルテン
/Act.3
5.都落ち
6.パドドゥ
7.チノカテ
/Act.4
8.月に吠える
9.451
/Act.5
10.いさな
11.雪国
/Act.6
/inst.第五夜
12.夏の肖像
13.靴の花火
/Act.7
14.左右盲
15.アルジャーノン
/Act.8

「月と猫のダンス」セットリスト

演劇(Actパート)

幻燈│第2章「踊る動物」がテーマであることは事前に知らされていたが、物語としての大筋は、劇の途中に示唆されたように宮沢賢治の『セロ弾きのゴーシュ』が基になっている。筆者が受け取った雑感に寄ってしまっていると思うが、その筋書きを以下に書き記す。

売れない画家の青年が唯一弾くことの出来る楽曲、『ピアノソナタ第14番』。創作に行き詰まった夜、彼が部屋でその曲を弾いていると、どこからか動物が現れ、不思議な踊りを踊る。
画家は今まで、そこにある風景をそのまま描いたような絵ばかりを描いていた。元恋人(美術商に似た仕事をしている)には、それらの作品を「面白味がない」と評された。夢に見るような、昔見たような映像を、捻りを加えずにキャンバスへと出力する。しかしその絵には客を引き込むような力が、面白味が、ない。
創作に行き詰まっていた画家はそのことを自嘲しながら、訪れた動物たちの動きを見て、何を思ってかそのスケッチを描き上げる。

元恋人から連絡が来た際、画家は部屋にやって来る動物たちをモチーフにした絵の話をする。また描き上がったそれが存外良い出来であることも。話を聞いた元恋人は宮沢賢治みたいねと言う。セロ弾きのゴーシュ。画家は、その話の結末を訊ねる。「訪れた動物たちにもう少しだけ優しくすればよかったと思う」。画家は、元恋人の口にしたそれが、自分への皮肉であることを理解する。彼女の薬指には光る指輪があった。

部屋に動物が訪れ、踊りの緻密な動作を元にスケッチを描く。そうして連作画としての体が出来上がって行く。彼と連絡を取り合い、絵を見た元恋人の女性から、個展を開かないかと連絡が入る。画家は良いチャンスだとそれを受け入れる。「踊る動物」をテーマに仕立て上げた十枚の連作画。一枚目は動物の仲間としての「人間」であり、そのモデルは秘密らしい。

そうして準備を進める中、借りている部屋の大家から、動物に餌を与えているのではないかと疑いを掛けられる。大家は画家にピアノを譲った張本人でもある。「ピアノを弾こうとすると動物がやってきて踊り出す」ことを画家が話すと、大家には狂人を見るような目で見られる。その夜やって来た猫に彼は、生きづらい世の中になった、と語り掛ける。見つめ返してくるその猫の、深い夜を纏ったような目に、画家は妙な既視感を覚える。遠い昔に、どこかで見たような。涙が頬を伝う。猫は彼の頬にキスをするかのように鼻を近づけ、どこかに消えて行く。それ以来、画家の部屋に動物はやって来なくなった。

展示会は成功し、画家は猫の絵画を残して、あとは全て売ることにした。斜陽の差す中、個展を企画した女性と会話をする。今回の絵が売れたこと、仕事の人脈を作れた気がすること、また、昔描いた絵も何枚か売れたこと。君が「好きじゃない」と言っていた絵だ、と画家は説明する。女性は、好きじゃないなんて言っていない、と言う。「面白味がない」と言ったのよ、と。「詰まらないと感じる作品にも、込められた想いには必ず誰かにとっての価値がある」それは嘗て画家が口にした言葉であった。彼自身はそのことを忘れてしまっていた。女性は「変わらないわね」と口にする。
別れ際、彼女はあの動物たちの絵は好きだと言う。ちょっと貴方に似ているから、と。「猫なんてピアノを弾いているときの貴方にそっくり」。画家はそれに、頭を強く打ったような衝撃を覚える。
その夜、画家は動物たちを真似るように、踊るようにピアノを弾き、思慮に耽る。
本当に踊っていたのか。全部勘違いじゃないのか。
あいつらは、このピアノが弾きたかったんじゃないのか。
「奇妙な踊り、か」
そう独りごちて、画家は月光ソナタを演奏する。まるで、踊りを披露する毛だもののように。

「月と猫のダンス」Actパート

長くなってしまったが、演劇のあらすじと、重要に思われる描写を上に書き留めた。これが今回のライブで語られる、コンセプトの部分となる。

感想と考察│月猫

月と猫のダンスの感想を纏めると、端的に言えば人に勇気を与えるライブであったように思う。主としてあるのは画家の創作への祝福でありながら、それに付随する形で、観る側も祝福されるようなライブであったと結論づけたい。

Actパートについての所感

n-bunaさんの、アルバムに沿った朗読のシリアスさを少し削ぎ、劇としての小話を上手く綺麗に纏めていた印象。「幻燈」自体に具体的なコンセプト、物語は明示されないので、それをここで新しく示されたという感じがある。

セットリストについての所感

幻燈│第1章「夏の肖像」の楽曲が殆ど全てを占めていた。楽曲だけを見ると「夏の肖像」の披露のようにも見える。しかしライブ全体としては「夏の肖像」を背景に「踊る動物」の劇をやるというのが主な意図だったのではないかと感じた。

構成について

夏の肖像(楽曲)の直前に第五夜のインストが入っており、それは第2章│踊る動物の曲なので、厳密には第1章│夏の肖像の楽曲だけを演奏した訳ではない。但しそれは雪国の後のActパート(セトリとして上に纏めた中のAct.6の部分)で、画家が元恋人から個展を開かないかと誘いを受け、画家としての道に陽が差したが故の第五夜だったように筆者は感じた。そこには動物に助けられ演奏の上達を見せるゴーシュの物語との融合が見られ、話の大きな筋が一つ纏まった感じがある。それ故に「踊る動物」の曲を入れて、動物からの祝福を表したように筆者は思えた。第五夜を選曲したのは、恐らくsuisさんのお気に入りだからではないか。彼女は夏の肖像と第五夜が一押しだと何処かで耳にした。
しかし逆に、ここまでのActパートは「セロ弾きのゴーシュ」のあらすじをただなぞって話を書いただけのようにも取れる。第五夜の次の楽曲が夏の肖像であることが、「夏の肖像」の意味を光らせる。
今回のライブで第1章│夏の肖像は、幻燈の物語を色づける背景であり、画家の夢や想い出、或いは前世、といった印象を受けた。そもそも肖像とは人間の外観、風貌の表現を差すものであり、それを一つの季節に当て嵌めた題は抽象的なニュアンスを纏っている。
その背景と、Actパートの女性の言葉から、画家が創作の道を拓いていく様が読み取られた。

画家と、元恋人の女性について

劇で描かれた関係には、ありふれた別れの印象があって、そこに切なさや取り返しのつかなさはあれど、深い悲しみに囚われるような暗さは感じられなかった。今までのヨルシカの物語には基本的に死別の要素が刻まれていて、それが聴き手の心を捉える一つの因子であると筆者は理解しているが、今回はその例に漏れて、ありがちな離別をした創作家の、不可思議な一幕といった物語であった。
しかしながらそこに深みや奥行きがないわけではない。彼と彼女の互いの想いは「夏の肖像」の楽曲の中に描かれているのではないだろうか。例えばパドドゥ。もっと踊っていようよ、という訴えるような言葉が印象的な曲だが、曲を聞きながら歌詞を見れば目に止まる部分がある。それは、思い出の中に貴方はいる、という歌詞を、僕らはいる、と歌っている部分である。これには恐らく理由があって、一人称的な昔の記憶には貴方しか居ず、しかし今となって俯瞰すれば、そこで踊っている私も居る。そういった回想を描いている故の貴方という文字と、僕らという読みなのではないか。それを前提にもっと踊っていようよという歌詞を聴くと、別れを惜しむ感情が鮮明に読み取れる。画家と元恋人との関係に「夏の肖像」の全てを当て嵌められるとは思わないが、それでもその関係を主体として「夏の肖像」が描かれているのは確かであるように思う。
また、元恋人の女性は画家の言葉を良く覚えていて、そのことは自らの人生に多大な影響を画家が与えたであろう事を示唆している。彼女は画家の昔の言葉を引用するが、画家は自身がその言葉を言ったことを忘れている。そんな画家に対して、彼女は中盤の部屋での電話する場面では「変わっちゃったわね」と言うが、幕引き前の展示会の場面では「変わらないわね」と言う。そこには元恋人の、画家へのリスペクトが垣間見える。

夏の肖像の可能性について

先に“画家と元恋人との関係に「夏の肖像」の全てを当て嵌められるとは思わない”と記述したが、それは画家が、自身の夢や前世の記憶を元に絵を描いたという描写があった故である。例えばさよならモルテンのガムラスタンの絵。これは画家の前世の記憶、異国の街並みを描いたものと思われるし、より具体的に言うならば、ある青年の思い出の地をその記憶から掬い上げたものと取れる。だからそれ自体は、画家と元恋人との関係とは関わりを持たない。
彼女は彼の絵を「面白味がない」と評するが、それに楽曲が加わることで面白味は生じたのではないかと思う。一度さよならモルテンを例に出したので、続けてそれを取り沙汰すと、画家の絵に、スウェーデンの童話作家が著した「ニルスのふしぎな旅」を基にした、けれど至って個人的な物語を加える。久々に会った人が今でも変わらずに物を作っていた、そんな描写を歌詞にする。
それは元恋人の主観のようにも取れる。
「夏の肖像」は、文学作品をテーマにしながら、画家自身の記憶の描写と、元恋人の女性による主観的な描写によって練り上げられた作品であると、そういった可能性を模索してみる。そうすると、絵にも歌詞にもより奥行きが生まれる気がする。勿論それは可能性でしかなく、音楽画集「幻燈」を正当に解釈するには相応しくない考察かもしれない。しかしながらそうして考えることで、画家と元恋人とがお互いを勇気づけ、創作を完成させようとする、その生命的な動きが見て取れる。そこに筆者は勇気づけられたような気がして、胸の内が温かくなる。創作と、創作をする人間に対して、祝福を与えるようなライブであったと今でもそう思う。

第一夜と踊る動物について

月と猫のダンスで一番に意外だったのが、第一夜をやらなかったことである。しかし筆者には、それにも意味があるように思える。
Actパートでは、画家が「踊る動物」の連作画を描く中で、一枚目に動物の仲間として人間を描いた、と言っていた。モデルは秘密、とも。言わずもがな、元恋人の女性がモデルだろう。「夏の肖像」の絵を描き、それを女性に見て貰った過去の日々。それは印象派の抽象的な絵のように、想い出として描かれる。しかしその想い出自体にフォーカスするのは月と猫のダンスではない。月と猫のダンスのコンセプトは、画家が連作画として描いた「踊る動物」であり、「夏の肖像」は、コンセプト上は背景に過ぎない。第一夜を演奏してしまうと、現在ではなく過去の物語が主体のコンセプトになってしまう。だから「踊る動物」を描く上では、第一夜を楽曲として演奏することはなかったのではないかと思う。
月と猫のダンスでは、そのタイトルにも入っているように、個展で画家がその絵だけは売らずに残したように、猫が重要な因子となっている。では、画家は夜を纏ったその猫のまなこに、何を見たのだろうか。遠い昔の記憶。元恋人は猫の絵を見て「ピアノを弾いているときの貴方にそっくり」と言った。それによって示唆されるのは、生まれ変わりであり、前世である。
けれども猫は画家自身の前世ではなく、遠い記憶の中で出会っていた別の、誰かの生まれ変わりなのではないか。ちょうど誰かにピアノを教えていた、その人の。
幕引きで、画家は奇妙な踊りを踊るように月光ソナタを演奏する。鍵盤を弾く指は手から拡がって、まるで動物の爪のようですらあった。
奇妙な踊り、か。そう自嘲するように独りごちる男は、しかし動物たちの動作に自らの心境を当て嵌めていたのだろう。月光を浴びてピアノを弾くそれは、もっと踊っていたいと希う、画家という人間としての、人間という動物としての踊りに他ならない。

そう考えたっていいよ│幻燈展示会、幻燈

二枚の青い幻燈。抽象画のよう。

もう考えないでいいのではと思っていたが、月猫のラストシーンでの、画家の「私は考える」と言う言葉を聴いて、目が開いてしまった。
なのでもう少しだけ、幻燈展と画集の話をして、考察の舞台の幕を引きたいと思います。

※以下の文章では幻燈展の展示内容、及び第一夜MVについてネタバレをします。

幻燈展示会

ライブ中、幻燈展に行ったときのことを思い出し、ふと、あれは画家が開いた劇中の個展に他ならないんじゃないかと思った。

幻燈展 第2章│踊る動物

これは私の家にやってきた、不思議な動物たちの様子を描いた連作画です。彼らは夜半過ぎになると私のピアノの近くに座り、奇妙な踊りを踊ります。それには不可思議な魅力が溢れているのです。私はその様子から着想を得た10枚の連作画を描きました。どうぞお楽しみいただけると幸いです。

「月と猫のダンス」頒布ポストカードより

そう考えると、この個展もやはりコンセプチュアルなものであると考えるのが自然である。

幻燈展では第2章│踊る動物の絵は勿論のこと、第1章│夏の肖像の絵や、それらの楽曲のテーマや歌詞を元にした展示がなされていた。更に月に吠えるのMVを描いたのが画集の絵を担当する加藤隆さんであることから、月に吠えるの連続画も展示されていた。

第一夜

ただ、中でもやはりメインとなるのは第一夜のMVだったと筆者は思う。

内容としては、歌詞の内容をなぞりながら、画家の描く絵や想い出の中で男女が生活し、踊っている、というもの。特に夜に花火を見て列車に乗って帰る描写が、どこか懐かしさを思わせる。心が震える。
夢を見ているようでありながら、確かな出来事ですらあるような、不思議な映像だった。

ヨルシカファンの間で、第一夜という楽曲はある種の特別性をもっていて、それはn-bunaさんのTwitterが現存していた際に、彼が弾き語りとして上げていた曲だからである。筆者もその存在を知っていたから、この題でこの曲が公開されたのには驚いた。
またその弾き語りでは、1番の「歌う木立を〜」の部分の歌詞が異なり、「僕の話をしてみます 小さな頃から嘘つきで 馬鹿なことばかり考えていつも困らせたっけ」であった。
第一夜は恐らく意図的に、花に亡霊と対比的な歌詞にしている節があり、その意味について筆者はまだ考察を深められてはいないのだが、今回表立って世に出る際に変更が加わったのは、より抽象的な印象を聴き手に与えるためであると筆者は考える。その方が、画家の物語には合っている(元の歌詞もとても良いが)。

このMVはいずれ動画で公開されると思うので、この感想に終始するよりは、公開を待って視聴するのが間違いない。

けれども、月と猫のダンスでは演奏されない第一夜という曲が、画家の物語にとって重要であることは間違いがないと、初見の時点でも筆者には十分理解が及んだ。
第1章│夏の肖像を、夢や想い出として踊り、歌い上げ、第2章│踊る動物の物語に繋げる。
そういったコンセプトが第一夜にはあると感じた。この曲には紛れもなく、画家と女性との物語を、美しく描いた側面がある。

一つ言い残すことがあるとすれば、画家と元恋人との別れには疑問があった。無理に考えることは出来るが、無理をしなければ考えるのは難しい。しかし、画家が女性を大事にしなかったことや、売れなかったことなど、要因はいくらでもあるのだろう。一つヨルシカらしいと思ったのは、女性は、画家の作品に対しては今でも本気であり、真摯だったことである。芸術至上主義的な価値観を元に考えれば、彼と彼女の別れすらも、作品を構成する大事な要素になってはいる。

幻燈

では、幻燈の物語の全貌とは何なのだろう。
それを解釈するのは難しい。抽象的で、明後日の方向まで思考を働かせなければ結論を述べることは出来ないし、理路整然とした答えを出すのは困難である。
画家と元恋人との別れ、想い出と前世、動物たちの踊り、夢、どれも繋がりを持たないようであり、しかし何か通じたものがあるような気がする。
この記事ではそれを明確するのに、多少なりとも努力をして考察をしてきたつもりである。つもりであるのだが、結局のところ筆者には、未だに具体的にこうだと説明することは出来ない。
しかし説明出来ないなりにも、一つ解釈を残しておこうと思う。

小さな谷川の底を写した二枚の青い幻燈です。

宮沢賢治「やまなし」

第1章│夏の肖像に於ける、又三郎、靴の花火。そのモチーフとしての「風の又三郎」、「よだかの星」。
第2章│踊る動物を深堀りする、ライブツアー月と猫のダンス。そのモチーフとしての「セロ弾きのゴーシュ」。
宮沢賢治が出て来すぎだと言える。n-bunaさんが宮沢賢治の愛読者だからであることに間違いはないが、しかしそれだけの恣意的な事由だろうか。
これに関して、第一夜のMVからも感じ取れる部分がある。花火を見た帰り、列車に乗り込む描写である。この描写に、ある人はヨルシカ「盗作」の物語を、ある人はn-bunaさんが過去に出した「花と水飴、最終電車」を感じ取ったようである。しかし筆者には、それらを通すことで、彼が一つ、『銀河鉄道の夜』の模倣をせんとしているように思えてならない。
今回の「幻燈」という表題の画集はその序章なのではないか。宮沢賢治の文学も、他の文学作品の精神も、その一つ一つを汲み取り、引っ括めて、ヨルシカの生まれ変わりの入れ子状の構造の中で、有機的に関係し寄与し合う、作品として完成させる。それを一つの目的にして、彼は創作をしている。
そんな想像をした。
無論、一つの描写からそう結論づけるのはあまりにも不自然である。しかしながら否定もしきれない。「やまなし」の序文から取った「幻燈」という表題に、筆者は何も感じない訳にはいられない(余談だが「やまなし」の公開は1923年4月、幻燈の発売は2023年4月、ちょうど百年である)。

文学作品をコンセプトに楽曲を、画集を出す意味。ライブで只管に輪廻を題材にした物語を描いている意味。それらを元に構成されて行く作品、ヨルシカを。

そんな夜を捜している。

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