日々の覚書き #2

ようやく#1の投稿が出来たかと思ったらもう今週の平日が終わり、なんなら土日も過ぎた。日記をつけるのも最初だけにならないよう週一で書こう……と思っていながらこの早さで一週間が過ぎると、漫画やなんかの週刊連載をしている人達が如何に大変であるかの一端に触れられた気がする。それが仕事だから、と言われればそれまでなのだけど。
という平日の中ではやはり1話30分弱のものを晩ご飯時に観るのが丁度良く、無事に烈車戦隊トッキュウジャーを走り切ることが出来た。

烈車戦隊トッキュウジャー 本編完走

自分にとってはリアルタイムで追いかけたのも含めて今回が3,4周目となる(最終回単体だと多分10回くらい観ている気がする)が、前回から時間が開いた事もあってか気づきの視点が変わり、思っていたより新鮮な気持ちで観続けることが出来た。

きっとこれから幾度と無く同じ話をすると思うが、大学時代の同期の一人のおかげで演出や構成を少しばかり意識するようになり、それまで動きの派手さや描き込みの細さくらいしか画面から受け取れていなかったが、直接的でない作り手の想いや拘りみたいなものを汲み取れるようになってきた。年明け早々に鬼滅の刃無限列車編を観て、久方ぶりにあった高校時代の友人と感想を言い合っていたら「演出を気にし出すとは面倒なオタクになったな」などと言われもしたが、何度でも佐々木君には尊敬の念を感謝の意を表したいと思う。

さて、トッキュウジャー最終回についてだが、今まで気に留めることのなかった演出面で数個ながら気づきがあった。感じ取っていたが無意識だっただけかもしれないが。
一つは闇に呑まれた烈車に光のレールが繋がるシーン。ライトの母親が持つ灯籠から光が伸びてキャッスルターミナルに乗り込む路線が形成されるところ。今までも「親から繋がる感動的なシーンだなあ」くらいには思っていたが、改めて見ると「親」の他に「星祭りの灯籠」という要素もしっかり組み込まれていることに気づいた。(今まで気づいてなかったのか、という話だが……)
これより少し前のシーンで、灯籠はライトの母親が記憶から消えた自分の子(=ライト)を想って作ったものであることが描写されたほかに、星祭りは人々の願いや希望を届ける祭りであることが語られていた。とするとつまり灯籠の光から生まれたレールはその願い、希望、祈り、からなるイマジネーションそのものという訳で、ただのお涙頂戴シーンではなく一年かけて唱え続けた『イマジネーション』の持つ可能性の大きさを最後の最後まで見せてくれたのだ、といった所が改めての大感動ポイントだった。

もういくつか気づきがあったはずなのだけど下書きを書いては休み書いては休み、土日は実家に帰ったりシン・エヴァを観に行ったりしているうちに忘れてしまった。
これからの晩ご飯のお供に何を観ようか、次回までに決めるだけ決めておきたい。

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