【新風】いまこそ皇道経済に基づき協同社会を守れ!

令和3年9月、維新政党・新風機関紙に寄稿。原文は歴史的仮名遣いだが、読者の便宜を考え現代仮名遣いに修正した。

資本主義の末路は社会の混乱だ

現代資本主義は末期症状を発している。マネーゲームにより肥大化し実体経済と遊離した金融市場は、リーマン・ショックでその限界を露呈した。ヒト・モノ・カネを流動化させればより市場が活性化すると謳っていたグローバリズムは、労働の不安定と移民による国民精神の空白化を招いたに過ぎなかった。「民間にできることは民間に」の掛け声の元、国営のものを民営化させればサービスもよくなると宣っていた新自由主義は、国民社会共通の資本を外資に売り渡すだけに終わり、パソナや電通といった国政にたかる蛭を肥大化させたに過ぎなかった。
何より、国家より市場を重んじることが公正であるかのような風潮は、人々を「国民」から「消費者」に変え、無国籍化、伝統文化への無関心、地域社会との無縁化を招き、東京一極集中は治まる気配を見せない。
こうした社会の崩壊を見過ごすわけにはいかない。経世済民的国民経済を再建し、日本人どうしが協同して社会を建て直す核となる発想が必要だ。それは、先人が如何なる経済を理想としていたのか、改めて考えてみることに尽きるのではないか。
そう考えたときに敢然と立ち現れるのが、「皇道経済」なのである。

日本の風土に基づく経済が皇道経済だ

皇道経済とは何か。これを説明するには少し歴史的経緯の解説が必要となる。皇道経済には狭義と広義が存在する。狭義の皇道経済とは、昭和初年の近衛文麿のブレーンが結集した「昭和研究会」の中で模索されていた経済のことである。昭和恐慌の中で窮乏化する農村を救済するため、後藤隆之助が新たな政策研究を近衛に訴えたことから始まる。これは近衛内閣による新体制運動や東亜協同体論に発展し、最終的に大政翼賛会に繋がることとなった。蝋山正道や三木清など転向左翼も集っており、思想的には雑多な集団であった。
広義の皇道経済はこれとは異なる。日本に資本主義が本格導入された明治初年から格差と貧困が産まれ、これを正すべきという議論が発展してきた。そのためには資本主義でも社会主義でもなく、日本の文化や風土、国民の実態によって経済政策は決められなければならないと論じられた。これが広義の皇道経済である。ここには「皇道経済」の名を冠せず論じた人がほとんどであるが、その思いはまさに「国体に基づく経済」であった。われわれがいま学ぶべきはこの戦前紡がれた広義の皇道経済の営みなのである。
皇道経済の原初は既に水戸学の中にも見られている。藤田幽谷は『勧農或問』で、敬神尊皇の観点から愛民農本の政策を取るべしとした。ここで幽谷は既に「聖人の法には田地の売買と云ふこと決してなし」と田畑は社会的に重要なので自由に売買すべきではないと論じていたのである。また、幽谷が重んじたのが常平倉である。常平倉とは豊作の時は米を備蓄しておき、凶作の時は米を放出して米価を安定させる取り組みのことである。社倉、義倉とも並び称された。国が災害や救貧のために備蓄するのを義倉、地域で備蓄するのを社倉という。注目されるべきは多くの場合に於て社倉は幕府や藩の役人ではなくムラで自主管理すべきものとされ、その中心には神社があったことである。ムラの共同性は信仰を基にすべきという発想がそこにはあった。
この社倉は、江戸時代の儒者であり神道家である山崎闇斎が、朱子が実践したものとして紹介したことから始まっている。しかし朱子は女真族や蒙古等の侵略に備える軍事的、兵站的要素が強かったのに対し、わが国で闇斎の弟子たちによって実践された社倉は救貧的側面が強かった。ちなみに西郷隆盛が南島に流された際に現地住民に伝授したのがこの社倉法であった。

富国強兵をぶち破れ

このように幕末頃にはあるべき経済の仕組みとして、心ある人の間では既に日本的な経世済民の方策が議論されていた。しかし、明治維新後になると富国強兵殖産興業のスローガンの前にそうした営みは一蹴された。日本を欧米の植民地にしてはならない、短期間で強い国、強い経済にしなくてはならないという危機感があってのことだが、それは維新の理想とは程遠かった。明治二十年代には芝や浅草などはスラム街と化して、貧者が東京中に溢れかえつていた。これに声をあげたのが当時の国粋主義者であった。『日本』『日本人』に集った陸羯南、三宅雪嶺ら政教社同人は、「国民を奴隷にするな」とナショナリズムの観点から救貧を訴えたのである。
特に日露戦争後になると、社会矛盾は深刻になり、知識人の間では近代文明に別れを告げ帰農する動きも出てきた。農本主義の時代の到来である。橘孝三郎は水戸に兄弟村を建設し、貧者を生み出しながら発展する都市の在り方に疑問をぶつけた。橘と共に農本主義の泰斗であったのが権藤成卿である。権藤はもともと内田良平の黒龍会のブレーンであったが、自らの先祖伝来の学問である「制度学」を講じ、「社稷自治」を主張した。「社稷自治」とはムラ相互の助け合いによる自治こそが重要だと主張するものだ。権藤は古代の屯倉が江戸時代の社倉と同じムラの相互扶助による救貧装置であったと主張した。つまり助け合いこそが天皇統治の理想であると位置付けたのである。権藤や橘は財閥が支配する国の在り方に強い批判を向け、五・一五事件に深く関わることとなった。
一方で経済学者の河上肇は、深刻化する貧乏を憂い「天皇への財産奉還」を主張した。「現の世より夢の国へ」と題されたメモでは、「私ハ此ノ天下ノ生産カヲ支配スル全権ヲバ、凡テ 天皇陛下二帰シ奉ルコトニシタイト思フ。恰モ維新ノ際諸侯が封土ヲ皇室二奉還シタヤウニ、今日ノ経済界二於ケル諸侯が其事業ヲ国家二奉還シテ、世俗ニ謂フ三菱王国ノ主人モ、三井王国ノ主人モ、其他一切ノ事業家資本家ガ悉ク国家直属ノ官吏トナリ、(中略)何人モ貧困線以上ノ生活程度ヲ維持スルト云フ、サウ云フ世ノ中ニシタイ」と記したのである。河上はもともと島崎藤村が「もつとよくヨーロッパを知らうじゃないか」と話しかけたら「愛国心といふものを忘れないでゐて下さい」と一喝する国士であり、そのような河上をマルクス主義に走らせてしまつたことが戦前日本の歪みであった。こうした河上の「天皇への財産奉還」の思いは高畠素之、遠藤無水へと引き継がれる。北一輝や大川周明も広義ではこの系譜に数えることができるだろう。
両者の折衷ともいえるのが昭和初年に出てきた河上肇の盟友作田荘一と難波田春夫の日本経済学であろう。作田は古事記日本書紀の「むすび」の発想に基づき国民が心を一つにすることを訴えた。難波田はそれに更に和辻哲郎『風土』的気候文化論を加味し、多湿のモンスーン気候にある日本は農業を主軸としムラで助け合う経済こそ文化的に合っていることを主張した。

大御宝を思う天皇統治

このように五・一五事件に繋がるムラの自治的皇道経済と、二・二六事件に繋がる天皇への財産奉還的皇道経済とに分裂し共通見解を提出することはできなかった。だが、戦前には資本主義でもなく共産主義でもない第三の道を探る動きがあった。そこに共通するのは天皇陛下が国民を「大御宝」と呼び慈しんでくださる思いを拝し、国に貧困なく日本人が持てる力を日本の為に尽くせる経済への思いである。
資本主義の限界が見えたいまこそ日本人は皇道経済の発想を取り戻すべきなのだ。

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