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書評 拳骨拓史『「親日派」朝鮮人 消された歴史』

拳骨拓史先生の『「親日派」朝鮮人 消された歴史』について月刊日本2019年8月号で書評した。本稿は二ページ分だったのが紙面の都合で一ページ分に圧縮した経緯があるため(よくある事だ)、本来の二ページ分想定の原稿で下記の通りご紹介する。

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いまの日本人はスケールが小さくなった。「韓国は反日だから嫌いだ」とか、ヘイトスピーチを垂れ流すばかりで、日韓の本当の歴史問題に向き合っていない。戦前のアジア主義者である内田良平の長女年恵は次のように言ったという。
「私のお父さんたちの時代は、「どうやって日本の国益にかなえさせるのか」。それだけを基準にして諸外国を相手にしてきました。なのに、いまの人たちは反日だから嫌いだとか、親日だから好きとか、日本人はずいぶんと小さくなりましたね」。
日韓関係がこじれているならば、あえてそこに取り組むことこそやるべき仕事ではないか。著者は、師である名越二荒之助に「韓国研究は反日ばかりでつらい。台湾研究をやりたい」と言ったところ、こう叱咤された。
「君は楽なことが好きなんだね。日韓はお互いが嫌いだからこそやりがいがある。ハードルが高ければ高いほど面白いのではないか」。
著者は「親韓」「嫌韓」というつまらない二分法を乗り越えるためにも、日本のために尽力してくれた多くの朝鮮人の友誼の歴史を顧みなければならないと説いている。
大東亜戦争の際には、朝鮮人で特攻隊として散華された方が何人もいて、その方たちは靖國神社に合祀されている。朝鮮人も日本人とともに大東亜戦争を戦い、あまたの犠牲をはらったのであり、彼らの力なしにあれだけの戦いをすることはできなかったのである。
朝鮮人は日本軍に徴兵されることを熱望する。徴兵は戦前の価値観ではとても名誉なことだったからだ。そこには朝鮮人の力を見せたかったという複雑な心情がある。朝鮮人が大東亜戦争に出撃したのは騙されたからでも強制されたからでもない。彼らは彼らの名誉のために誇りをもって戦場に赴いたのである。ただしそこには「日本人に自分たちを認めさせたい」といった複雑な感情も入り混じっていた。それは祖国を失ってしまった無念と一体になっている。そうした当時の朝鮮人の思いを理解しなければならない。
そもそも日韓併合は李朝時代の両班による搾取もあり、大きな反対もなく至極平穏に行われた。しかし、やはり祖国を失ってしまったという思いや、総督府の武断政治への反発、風水的感覚の無視などがあり徐々に独立運動が盛り上がっていった。だが独立運動家はテロ行為に走るばかりで有効なものではなかった。
朝鮮人の反日感情が変わったのは、斎藤実総督のもとで文治政治に転換したことがある。さらに後には満洲事変によって中国東北部の脅威がなくなったことが親日感情を強くさせた。当時の満洲は馬賊が跋扈しており、現地に移住した朝鮮人は奴隷的立場に置かれていたのである。
そのことにより独立運動家は献金がなくなり活動資金に困り、大陸に渡り蒋介石に接近し、国民党軍に編入されたりした。結局戦後も生き残っていたのはアメリカに逃げていて「大韓民国臨時政府」を謳いながらも特に何もできていなかった李承晩だけであった。
むしろ有効性を持った朝鮮人の地位向上運動は閔元植の「新日本主義」である。閔は、「東洋人は小我を捨て日本を盟主に白人に対抗すべきだ」としたうえで朝鮮人の参政権と地位向上を主張していた。この閔をテロで暗殺したのは、同じ朝鮮人で独立運動家の梁槿煥である。朝鮮人独立運動家は閔元植のような人物を反民族的と決めつけテロで殺害するばかりであった。
李承晩は韓国に戻るや否や「親日派」をつるし上げ自己の権力基盤を盤石にする。閔元植は「親日派」として断罪し、梁槿煥は「救国の英雄」として祭り上げた。それが現在にまで続く日韓関係のゆがみの一つである。
ときおり保守派に「日本は併合時代、韓国に莫大な経済投資をした」などといって併合を正当化する人がいるが、それは誤りだ。戦前日本でも「一視同仁」ということが言われた。日本人も朝鮮人も同じように愛しむべきという意味だ。経済発展させてやったのだと恩着せがましく言うべきではない。こうした戦前の理想は実現したとは言い難いが、少なくとも「嫌韓」の軽薄な風潮に乗っても何も始まらない。
「日韓断交」などと叫ぶ保守派がいる。彼らは韓国人がすぐ感情的になるとバカにしているが、自分たちも同レベルであることに気付いていない。戦前称えられた「一視同仁」の理想を忘れず、韓国と腹を割って話し合える人材が必要だ。
恩讐を超えてお互いの長所を認め合うことこそ、日韓の今後進むべき進路なのである。

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