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最高の味噌汁

 私が至らないからだ。夫はいつもイライラしている。

今年一番の冷え込みで、気温は氷点下になるってニュースが言うから、夫のためにと私史上最高のお味噌汁を作った夜も、一口飲んだ途端、夫は拳をテーブルに打ち付けた。お椀はひっくり返り、お味噌汁はテーブルから床へと流れ落ちる。慌てて流しから布巾を取り、床に這いつくばる私に夫の言葉が追い討ちをかける。

「なんだこれは! お前のような穀潰しを養ってやってる俺に対する嫌がらせか! どうせ日がな一日酒ばかり飲んでるから味覚がおかしくなってるんだ。キッチンドリンカーにまともな料理が作れるわけはないんだから余計なことをするな。一人前に女であろうとするな! お前は俺に飼われている動物なんだ。大人しく飼い主の俺の言う通りにされてろ」

一気に捲し立てた夫は、私の顔を平手打ちし、腹を拳で殴る。罵倒と暴力が通り過ぎるまで、ひたすら小さくなったまま、床に転がり続ける私。ふーふーと荒い息が聞こえる頃、嵐は過ぎ去り、私の頭を優しく撫でるのは同じ夫。そして優しく抱きしめてくれる。これが二人の合図だ。その夜は決まって、夫は激しく私を求め、私はそのひとときだけ一人前の女になれるのだ。
 もうすぐ明ける頃になり、私は夫の寝息を確認したあと、アルコールを求めてそっとベッドを抜け出した。キッチンの小窓を開けると、目の前に細い月が見えた。月に住む人はみんな幸せ。白い光に包まれて、人生白歴史になる。誰に聞いた話だっけ? それともアルコール漬けの脳細胞が産んだ妄想? 少しでもたくさん月の光を浴びたくて、私はリビングの窓も開けてみた。まだ足りない? 窓からの冷気に催した私はトイレに急ぐ。グラスを持ったままトイレに座る自分に苦笑する。このまま死んだら、笑い物だわ。でも、月の住人に転生できるのなら、死ぬのも悪くはないかも知れない。
 トイレの小窓も開けて、もう一度月を見ようと思った。でも、外は突然横殴りの吹雪。気温は氷点下になるってテレビが言うから……。


◇◇◇


「ここ数日の陽気のせいで、一気に腐敗が進行して、近隣住民が気づいたようです」
「死因は?」
「二人とも目立った外傷はありません。夫の方は寝室で全裸で、妻の方はトイレに座ったままの姿勢で死亡しており、二人とも凍死という鑑識の見解です」
「凍死? いつ死んだんだ? そんな寒い日あったっけ?」
「妻の遺書のような、物語のようなものが残されており、そこに今年一番の冷え込みと書かれてあったので気象庁に問い合わせたところ、この辺りは二月の十八日未明に突然の猛吹雪に見舞われたそうで、遺書の内容とも一致するかと」
「半月以上も腐らずに見つからなかったと?」
「全ての窓が開け放たれており、ご丁寧にエアコンは冷房になっていたそうです」
「妻の計画的無理心中か」
「それが一番無理のない筋読みかと」

俺は渡されたその遺書というか、物語というか、よくわからない文章に一通り目を通した。その内容を鵜呑みにするわけではないが、計画的に無理心中をはかった人間とは思えないくらいに、夫に対する負の感情が書かれていない。自己肯定感の欠如は、この手の女性ならではだが。これは本当に事故だったのではないか、俺にはそう思われて仕方なかった。ただただ窓を開け放ち、月の光を少しでも多く浴びることで、本気で月に転生できると信じた一人のアルコール中毒の女性。証拠はどこにもなく、エアコンが冷房になっていた理由も説明できないから、そのことは口には出さないけれど。

「語り手はすでにこの世にいない物語か。妻の方は月に行けたのかね。夫までついて行ってなければいいんだけどなぁ。おい、お前が監督ならこのドラマ、どう落とし前つける?」
「なんですか藪から棒に。死んだらそれでおしまいですよ。転生したり亡霊になって化けて出たりとか、それこそお話の世界ですから。こんな結末迎えずに、シェルターなんかを利用して、夫から逃げて、生きる道を選んで欲しかった」
「かあっ、現実主義者なくせに理想論者かよ。これは女にモテないはずだわ」
「ちょ、なんすかそれ。パワハラ? セクハラ? あれ? 何ハラなんすかね?」

見上げた空には、朝の太陽の光に負けそうに透き通った半分の月が見えた。切り損ねた大根のような月を見て、最高の味噌汁がどんな味だったのか、俺はとても気になった。

【了】

#2000字のホラー

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