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風刺がいたたまれない

最近、パリの街を歩いていると妙な広告が目につくようになった。十字架に磔にされたイエスの像、その顔が男性器の顔を模しているのである。垂れ下がる瞼、または金的を暖簾のように片手で持ち上げて、イエスは胡乱な表情でこちらを見ている。学校近くの広告塔に張り出されたそれを私は思わず視界から外してしまった。
そして今日、カルチェラタンの付近で見つけた広告塔も同じ図柄を乗せていた。違ったのは、保護のガラスごと顔が黒スプレーで塗りたくられていたところである。下に同じ色で罵倒の言葉が書き連ねてあった。再び私は目をそらしたが、心の奥にはうっすらとした安堵があった。
その絵は雑誌の表紙だった。

フランスに限らず、ヨーロッパに風刺の文化があることは周知だろう。歴史の教科書を開いたことがあれば、十九世紀のページに政治を小馬鹿にしたイラストを見たはずだ。そしてなかでもフランスは風刺画の大国である。シャルリーエブドの事件は記憶に新しく、私自身、パリに留学してなお一層風刺に触れる機会が増えた。  

特に顕著だったのが歌である。
語学の勉強でも友人同士の会話でも、Youtubeの音楽は便利なツールだ。フランス語のみの理解が難しい私にとっては映像があり、音が流れ、字幕が付くクリップビデオは多少わかりやすい。そして社会に問題を提起する歌はフランス語圏では珍しくない。時間制限つきで人工の動植物と戯れる子供たち、爆弾の地球の上で健やかに成長していく少女、青い小鳥が化物が丸のみしてこようともスマートフォンから手放せない青年を、私は神妙な面持ちで眺めてきた。彼らは真面目に社会に訴えかけているのだから、受け手も真剣であるべきだ、と無意識の内に考えていたのかもしれない。

そうなんとなく折り合いをつけて日常を過ごす内にフランス人の家に呼ばれた。狭いワンルームの中で、日本人数名とフランス人数名でチップスをつまみ、酒を飲み、馬鹿なことで騒いだ。Youtube に紐づけられたテレビはディズニーソングを選んでくれたため、フランス語版の歌詞を知らずともメロディーを歌い上げることができた。みんな笑っていた。楽しかった。

Under the sea で踊りLet it goを熱唱した後のことだ。フランス人の一人がそういえば、と笑い声をあげながらカーソルを動かした。画面に現れたのは先ほどと似たような薄い水色の背景にブルカ姿の女性である。停止した画像に合わせるように、明らかに素人の男の声が音程を外して流れてくる。歌詞のテロップもあるが意味がよくわからなかった。ただ寒々しい予感だけがした。
「ああこれ? ISISを揶揄した歌だよ」
怪訝な私の表情を見てか、友人が説明を入れた。画像を見てそれくらいは予測がついていた。なるほど映画の発表もISISが世間をにぎわせていたのと同じくらいだったか、違う、そんなことが言いたいんじゃない、混乱した私の頭を
「フランスではこれも冗談だよ。笑えるようにならなきゃ」
友人の言葉が突き刺した。
「そうだねえ、こういうの日本にないからさ、文化の違いってやつ?」
ショックを見せまいと声のトーンを引き上げたが、苦笑は場に水を差したらしい、次に流れたのは耳に優しいA whole new world だった。フランス人の優しさに感謝しつつも、彼らとの温度差が妙に居心地悪かった。


その時、フランスで生活する中で感じていた違和感が腑に落ちた。ユーモアの定義についてだ。

困難を乗り越えるには冗談が必要だという論は理解できる。心からの笑顔はストレスを軽減し、生存率を高める。悲壮な顔をしているよりも襲い来るものを笑い飛ばしている方が強く逞しくあれるだろう。また、この六角形の国においては、私から見るとグロテスクな表現も身に馴染んだものなのかもしれない。物を伝えるには感動が伴うべきだという論には納得がいくし、ポジティブであれネガティブであれ、伝える相手の心を揺さぶるものは人口に膾炙する。情報が溢れているからこそ、強烈なファーストインパクトがなければ再生回数や購買部数につながらない。

けれど、題材としても手法としても、彼らのブラックジョークは私にはショックが過ぎた。波風立つのがどうも苦手な性分である。誰かのタブーに触れるような揶揄はどうにも地雷原でタップダンスしているように思えてならないし、いかにもグロテスクなイメージ画像はトラウマものだ。先に挙げたストロマエのCarmenの替え歌など、自分がTwitterに耽溺している自覚があるからか、青い鳥型の化け物が血走った目で人を飲み込む場面が脳裏にこびりついたままだ。

これらはきっと批判のユーモアである。そして揶揄のユーモアでもある。何かを鼻で笑って生きていくことそれ自体はマウンティングでありかつ人生の智恵である。それは当然で、道化師でも風刺でも、体制を笑いに変えることでわかりやすく批判することが始まりだからだ。トランプのジョーカーのように強者を引きずり降ろしてこそ意味があり、「ペンは剣よりも強い」。

現代でも風刺には上からの視点が残っているのだろう。そして笑いで囲っても上からの視点は大概分析的で圧力的だ。不躾な視点によって引き起こされる悲惨な事件が想像できるからこそ、また大切なものを否定される恐怖があるからこそ、私は過激な風刺というものに忌避感を覚えてしまうのかもしれない。

冒頭に述べたキリスト像を思いだす。中高をミッション校で過ごした私も見慣れない絵面を笑ってやりすごすべきならば、それはまるで徳川幕府が課した絵踏みのようだ。否定は痛い。笑いものにされることは辛い。ペンの力の矛先が行動ではなく人格に、体制ではなく被支配者層に、マジョリティではなくマイノリティに向いた時、抵抗するための力は圧制となり災禍を生む。

はたして私は風刺すること、されることに慣れるべきなのだろうか?

浅学な私はこれ以上の言及を控えよう。表現物に塗られた黒いしみを見て、同じ感覚の人がこの街にもいるのだと安堵した私は、他の発言者同様に無責任であろうから。

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