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自己肯定感を普通にする日記の書き方

自己肯定感の低い人間にとって、「自己肯定感を高めよう」という言葉は否定的な方向にしか働きません。自分を肯定するとかそもそも意味がわからないし、高めなきゃいけないものだとしたらそれもできない自分などなおさら無価値なわけで。自然にそう思っちゃう回路に逆方向の力をかけるのはこじらせを招く恐れがあるのです。

しかし少なくとも日常生活を送っている以上、人生を完全に無為にすることは不可能で、何かしら「やって」はいるはずなんですよね、事実として。ご飯食べたとか、仕事ひとつ納品したとか、映画を観に行ったとか、洗濯したとか。自分が人間か無価値かに関係なく、単なる事実として、世の中に起きたことは否定できません。

出来がどうなのか。優先順位は合ってるのか。それは今日やるべきだったのか。そういう評価はとにかく無視して、現実として今日起きた。今日やった。それが事実であることは、自己肯定感が高かろうが低かろうが認識可能です。


高めなきゃいけないものとも思いませんが、苦しいよりは普通がいい。普通がいいんです。その部分になんとなく効いたのではないか、と今年感じたのが、「事実の記録としての日記」でした。

自己肯定感の低い人間にとって、日記とか振り返りとかは拷問です。自分のダメと無価値を繰り返し認識することでダメージを深くする作業でしかないからです。自分を残すなんてとんでもない。

だけど、何も記録がなければないで、自分は何もしていない、何ひとつできていない、とさらに一段階深いところで勝手にダメージを負ってしまいます。本当にめんどくさいです。

元々はコロナ禍中の変わり映えしない日々に「昨日は存在したんだっけ?」みたいな感覚で時間が溶けていくことが不安になり、今日の存在を文字で残してみたらいいんじゃないか? と思ったのがきっかけでした。日記というより、その日の存在を事実として残す、という発想でした。

生来の三日坊主で、特に日記とかブログなんかは2〜3週間で飽きるというか忘れてしまう方なのですが、なんだかんだで半年くらい継続。その後、忙しくなったりして1年半程度忘れていたものの、なんとなく今年の5月に再開し、現在まで続いています。夏頃からはこんなルールにして、より書きやすくなりました。

  • 今日起きたこと・やったこと・発見したことを数行書く

  • 今日できたこと・完了したことを3つ書く

  • 書き忘れた場合は前日分まで書いてよい

とにかく、自分のことじゃなくその日のことを考える。評価は置いといて事実を書く。そこに結果として、「自分が何もできてないわけじゃない」ことを事実として認めざるを得ない状況が生じました。すごいことはひとつもないし、誰かさんに言わせたら「なんであんたがここで生きてんの?」(言ってない)なのかもしれないけど。どんなにしょうもないことでも、事実として何もしてないわけじゃないことは間違いない。

さらに、そのページが重なることで「何かしらやった」事実が物理的に上積みされていくわけです。自分を肯定しようと思ったわけじゃなく、ただの事実だからこそ、嘘でなだめすかされてるわけじゃない。

全然すごくない、けれど何もできてないわけじゃない。100はできてないけど0じゃない。それはとても普通と言って差し支えないんじゃないか。普通かもしれない。普通なのだろう。

内部的な自己肯定感のあり方は一旦置いておいて、外部への出力に着目して事実を書く。自分にとっては日記が毎日をそのように認識するための装置になりました。

自己肯定感はやっぱりよくわからないけど、事実を否定してまで自分の無価値を主張するのは、根拠のない自信と同じくらい理不尽な気がして。自己否定するならするで、事実を見て合理的にやっていきたいものだと思いました。それ以外の部分は、普通で。

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