なぜシャニPはイケメンであることが望まれるのか

シャニのPはイケメンであることがたびたびツイッターで話題になるので、自分がその事について考えたことをおいておこうと思う。戯れ言や妄言のたぐいだけど。

 まず従来のP像として頭がPの形になっているイラストがそこそこメジャーだったことは共有したい。その姿が怪物にしか見えないという意見も最近では結構見かけるし、怪物か怪物でないかでいうならまあ怪物になのだけと、とにかくそんな前提条件がある。
 怪物にしか見えないと言われたとしたも、頭がPであることは一応理由が考えられる。それは、Pという記号は、そのイラストがプロデューサーの代理であることをあらわしているというものだ。いわば方程式のXのようなもので、そのプロデューサーは誰でもありうるので、特定の顔を書くとみんなの代理になれなくなってしまう。ユーザーの一人一人がアイドルをプロデュースする存在であり、誰も特別な地位のプロデューサーではないことの反映だ。

 これに対してシャニPはイケメンであることが望まれ、話題になるような存在である。P頭が匿名の象徴とすると、イケメンは固有性の象徴だ。自分がプロデュースするというより、この人がプロデュースするのを眺めるというスタンスに近いのだと想像する。

 プロデュースする主体が、自分であることと、イケメンの誰かであること。この違いは大きいと思う。自分がプロデュースするという感覚は、うちに、自分と共にアあればイドルが幸せになれること(トップアイドルにするという形から、結婚という形まで広く含めて)が含まれているが、イケメンの誰かがプロデュースしているときには、自分ではそのアイドルをプロデュースできないという含みがある。

 シャニPイケメン待望論においては、もはやユーザーとしての自分が幸せになることが望まれていないのではないか、というのが一応の結論めいたものである。自分がこの世界で幸せになることは望み得ないから、代わりの理想世界とその中の登場人物が理想的な生を送ることを期待されている。そこはイケメンも含んで美男美女しかいない。悩んだり、苦しんだり、誰かに重い感情を抱いたりするのは、もはや世界にも他人にも何も期待せず何も感じなくなった自分達同士の人間関係から見たら理想的だ。そんな人たちがなんとかもがきながら自分達の生を掴もうとする理想的な生は、古代ならばギリシャ神話に描かれた英雄達の人生だったのだろう。
 自分ではない存在の生を理想として愛でる振る舞いは他のコンテンツにもあって、Vtuberとかカップルチャンネルとかリアリティーショーとかがそうと思う。私はプロセカやったことはないけれど、美男美女が織り成す物語のような雰囲気は感じているから、似たところがあるかもしれない。彼らのように自分の生を他人に見せる商売は些細なことで炎上するが、それは誰かの理想を生きているからであり、理想の生の中では道徳も理想的なものが適用されなければならないからではないだろうか。自分達の生きている世界は汚物にまみれた世界だから、批判者自身が道徳的に生きていないことは問題にならないのだろう。

 余談として、この何も感じなくなった主体の人生のためのコンテンツのもう一極はメスガキなのではないかと思う。自分だけでは他人に欲望できなくなったEDに対して、健康な欲望を取り戻すように励ましてくれている。

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