声優の結婚、足立区の滅亡、生産性

 シンデレラガールズ9周年おめでとうございます。そら9年も経てば人は変わるし結婚する方もでてくるでしょう。というわけで今回の話題は声優の結婚です。

 ついこの間渋谷凛役の福原綾香さんがご報告をされました。去年の年末あたりからご報告が相次いでいてもう何があっても驚かないような様相を呈しておりますね。さて、ご報告があるとツイッターランドにはおめでとうコメントが溢れている様子が観察されます。拗らせたオタクの感情の淀みみたいなものはあまり見かけなくなってきているようで、治安がよくなっているのだろうと思います。それでもかなり有名な声優さんのご報告だとぼちぼちあって、ときおりツイートに乗せられたスクショで晒し者にされています。彼らのお気持ちには同情する要素があまりないですが、全然無関係の誰かの承認欲求のエサにされてしまっていることにはもの悲しさがなくもないです。まあツイッターの発言は注目やら承認やら何やらのために過激になっていきがちで、女性声優のリプ欄が地獄になって問題になりがちですから、批判はあったほうがいいでしょう。

 閑話休題。実は僕が本当に話題にしたかったのは「おめでとう」コメントの方です。何を言っているんだお前はと言われそうですが、僕は「誕生日おめでとう」すら違和感があってなかなか使えなかった人間だといえば、ご納得いただけるかと思いますので、その話から入ります。

 一休宗純によると伝えられる、門松は冥土の旅の一里塚 めでたくもありめでたくもなし という狂歌があります。人生は有限ですから、当然正月が来る度に死が近づいて来ているわけです。そう考えると正月のめでたさが曖昧になってくるわけですが、誕生日にも同じことが言えます。また一年死が近づいたというのに何がめでたいというのか、と。もちろんこれに偏屈さを感じるのがまっとうな感性だと思いますし、僕自身も今はそこまでは思っていません。「誕生日おめでとう」という言葉は誕生日を迎えた人に対して、その当人に親しい人が、あなたが今日までこの世界にいてくれてありがとう、みたいな意味を込めて言う言葉だと考えられるからです。つまりは上のような考え方はぼっちをこじらせた感性が導いてきていることになるのでしょう。嗚呼。それはともかく、おめでとうと言われるからにはその事柄に価値があることが前提されるわけですので、自分は祝われるほど素晴らしい人生を送っているだろうか、人に優しくよいことをして過ごせてきただろうかと多少反省の気持ちが湧くことについては分かってもらいたいな、と思います。

 ここまで話した上で、声優さんの結婚おめでとうの話題に移ります。一応ことわっておくと、声優さんも人間であって、それぞれの人生計画を実現することを批判されるいわれは少しもありませんから、結婚したこと自体をどうこう言ったり、声優のアイドル性がうんぬんとか、演じている役との関係がうんぬんとか、そういうことを言うつもりは全くありません。ただ、結婚したことにおめでとうと言う、その社会習慣についてだけ話題にしたいと思います

  とりあえず、 結婚について「ご報告」がなされた以上、すくなくとも何らかの意味で当人の望みが達成されたのだと考え、それについてよかったという気持ちを込めて「おめでとう」とコメントしているのだ、という解釈がまずあります。これはこれで妥当かな、と思わなくもないのですが、ぼくは少し引っ掛かりを覚えるのです。どうしてかというと、おめでとうという言葉は①何か価値あるものに対して②それが達成された、あるいは実現された 時に使うと考えられるのですが、この解釈では「価値あるものが実現された」ことまでは語っていても、それがなぜ価値あるものとされるのかについて何も説明していないからです。不足を感じるのです。ここで結論に飛ぶと、結婚おめでとうと言うことによって、無意識に、結婚こそが人生の至上価値だ、みたいな言説を再生産することに荷担してしまってはいないか、そういうことが言いたいのです。

 無論、今の日本社会は自由主義社会ということになっていて、平たく言うと個人の選択こそが重要だという理念のもと社会が動いていますので、結婚することを非難することが的外れなのと同様、結婚しないことを非難することも的外れなわけです。そんなことお前に言われんでも分かっとるわいという声が聞こえて来ますが、そうなると、結婚おめでとうと言ったとき結婚を価値あることと判断した根拠はどこへいくのかが問題にならないでしょうか。ここで「いや、当人が何か望みを達成されたようだから、そのこと自体を価値あることと考えておめでとうと言ったのだ」と反論すると上の解釈になるわけなのですが、おめでとうと言っているのにその対象となる物事について価値判断はしていないと主張するのは無理があるのではないかと考えるのです。結婚そのものに対して、無意識的に価値あるものとしてしまうのは何故なのか、考える必要があります。

 さしあたりWikipediaの結婚の項目を見てみると、婚姻という言葉とともに、「社会的に承認された夫と妻の結合」とありました。ここでは結婚と婚姻の違いには深入りせず、この定義をとっかかりに話を進めたく思います。分解すると①「社会的な承認」と②「夫と妻の結合」の2つになりますから、それぞれの価値とのつながりを考えます。 

 まず分かりやすい②から入りますが、わざわざ「夫」と「妻」という言葉が使われている以上男性と女性の組が嫌でも連想されます。生々しい表現は避けますが、要するに人口を再生産するためのユニットのことが意識されているわけです。社会の人口を維持することこそが価値なのだと、そういう含みがあります。

 これを①社会的な承認 と繋ぐと、要は、いざ結婚しようという人は、社会の中で、私はこの人を配偶者として、他の人を配偶者とすることはありません、と宣言して、他の社会構成員が、わかりました、私たちはそれを認め、あなた達を我々の配偶者候補と考えることは今後行わず、社会のメンバーとしてそれを歓迎しますと言う、とか、そういう話なわけです。一夫一妻制というルールが守られることや、結婚によって社会に承認された一人前の人間と認められる(さらに言うと、人口再生産に寄与することによって社会の中での義務を果たすことができるようになるため、そこではじめてメンバーとして承認されるようになる、みたいな考え)とか、そういう価値と繋がります。

 結婚の価値のことをいろいろ考えましたが、一言でいうと、人口の再生産こそが無意識に価値とみなされているんじゃないかと、そういうことが言いたいわけです。結婚おめでとうと人々が言い続けることによって、自由主義社会で人々がそれぞれ自分の望む価値を実現できそれが推奨される社会であっても、人口再生産は社会で共有された価値であり、逆に人口を再生産しないものは価値を実現していないという主張を再生産し続けることになってはいないかという疑いです。

 ついこの間LGBTばかりになると足立区が滅亡するという発言について話題になっていました。問題の多い発言ですが、これに反論するには2つあると私は思っていて、一つは.足立区は滅亡しないという方向、もう一つは足立区が滅亡してもかまわないという方向です。より根本的に考えるなら、後者を選ばないといけないと私は思います。個人の人生に比べれば足立区なんて取るに足らない存在だと主張しないといけないと思います。「足立区、滅亡させちゃおっか」みたいな台詞を含んだ百合創作を目にしましたが、本当はそんな台詞に尊さを感じてはいけないのです。足立区(社会)の存続と自分達の恋愛とが天秤にかけるに値する重大事だと捉え、それでいて自分達の恋愛をとるセカイ系みたいな台詞だから尊さを感じるわけですが、個人の人生は足立区の維持なんかのためにあるはずがない以上比較にならないし、またするべきでもないからです。これらの二次創作はカウンターのようでいて実は、人口再生産は個人の恋愛の実現と比べることが可能な価値を持っているという含みがあり、社会通念の再生産をする役割を果たしている側面もあったかもしれません。

 結局話がどこに収斂していくかというと、オタクは足立区百合みたいなものを雑に消費しながら声優さんには結婚おめでとうって言って人口再生産を称えるのは、矛盾にも似た軽率さがあるのではないかと思ったということです。無論個人の自由な選択の結果としての結婚自体に問題があると言いたい訳ではなく、その結婚の価値はオタク社会がよってたかって称えなければならないほどのものなのか、今日は迷ったすえ夕食にカレーを食べました、と同じくらいの価値を認めれば十分なのではないか、というお話がしたかったのです。

 最後に補足をいくつか。お前は少子化を問題と思っていないのか、みたいなご意見はありそうです。この話は長くなりそうなので省略します(また暇があったらやります)が、すくなくとも個人の人生は社会のためにあるわけではないことは同意してもらえるかと思います。また、結婚おめでとうというのは生涯をともにするパートナーが出来たのを喜んだのであって人口再生産なんて意識してないという反論もありそうです。それなら本論の批判は当たらないとは思いますが、なぜパートナーが出来ることをことさら祝おうと思うのかに疑問はあります。家族の延長として捉えてないか、みたいな。あるいは人生における他者との関わりに期待しすぎていないか、とか。

 それでは。声優の方自身が結婚できないことをネタにしたり、オタクが声優さんの年齢と結婚のことを話題に出したりすることがなくなることを願いつつ。


 




 

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