おどるということ。

〜山形ビエンナーレ2022のふりかえり①〜


先月、山形ビエンナーレ2022が開催された。

山形ビエンナーレ2022


『まちのおくゆき』


という、プログラムの一つに
公募で集まった市民が一緒にダンス作品を創り上げるというプロジェクトがあった。



6月〜9月の期間、月に1度(8月は3日間)クリエイションのために山形市のクリエティブシティセンターQ1に足を運び、20名ほどのメンバーが一緒に時間を過ごした。

ファシリテーターは
砂連尾理さん。




砂連尾理さんとは、2021年からスタートした、鶴岡市内の障がい者施設でのダンスワークショップでご一緒させていただくとことができた。

コロナ禍において、施設を直接訪れることが制限される中、砂連尾理さんが、遠隔(zoom)でファシリテーターをし、私がカウンター役として施設で利用者さんや職員さんと踊る。という容をとったこのダンスワークショップは

支援する/される

という、福祉の現場にある"ケア"という「対面での関係性」を、横並びにしたり、背中合わせにしたり、まさに関係性に揺らぎを与えて、利用者さんだけでなく、職員さんたちにも新鮮な風を吹き込んでいた。

その現場に立ち会えたことは、幸福だった。



その砂連尾理さんが、今度は直接、市民たちと作品を創るというのだから、参加しない理由はない。


そして、今回は、同じダンスチーム(Kickin Dance Fam)のメンバーの2人をどうしても連れて行きたかった。

この2人は、ダウン症者で、活動の中で言葉でのコミュニケーションをすることは、ほとんどない。

男性の方は、ボディランゲージというか、ノリやポーズで何かを伝えてくれるし、女性の方は、とっても動きがゆっくりで柔らかい。

わたしが扱う
ストリートダンスの動きでは、2人の表現の開示はうまくできないと、数年前からずっと悩んでいた。。。

この2人の持ち味が、存分に発揮されることを願って、鶴岡から山形までの移動のフォローをすることを約束して家族を説得。

コロナ感染拡大などに翻弄されるときもあったが、間違いなく言えるのは


「参加して本当によかった。」

ということ。


参加者のだれもが
お互いの表現を見つめ合い、その存在の有り様を
しっかりと認識していく過程は、

なんともいえない、特別な時間の流れと豊かさを感じさせてくれた。

そして、一緒に参加した2人の存在は、参加者にとっても大きなものだったとおもう。

ダウン症の彼は砂連尾さんの声を
愛嬌たっぷりに拡声するような役だった。



それは、ある日のクリエイションが終わって、参加者がマイクを回しながら、ひと言ずつ感想を言う時間に訪れた。

一緒に参加した、ダウン症の女性にマイクが回ったとき。

彼女は、クリエイション中も言葉を発していなかったし、マイクが回ってきたときも、言葉を発するというかたちではなかった。

マイクを持ち替えたり、
首を傾げたり、
マスクを外したりつけたり、
自分の名前の書いてあるシールをみせたり、
マイクに口を近づけて微かな声を発してみたり。。

誰もが彼女の発する微かな想いを
汲みとろうとしていた。


時間にして、5分ほどだったと思うが、とてもとても長く感じだ。

それでも、彼女は体中を使って伝えようとしていたようにも見えた。

彼女が何かを言い終えたのを、その場にいた皆さんが感じとった時、拍手が起こった。


その振り返りの最後に、砂連尾さんは言った、

「彼女を見習いましょう。」

「もっと自分の身体を信じてあげましょう。」


と。


ダウン症の彼女の存在、その時の有様から、砂連尾さんは、彼女の強い表現の力を感じとったのだと思う。

それは、

"ストリートダンスじゃない、彼女の良さを顕にしてくれる表現の在り方が必ずある"

と思っていた、私にとっても
救われたようなきもちになったのを覚えている。



〜山形ビエンナーレ2022のふりかえり②〜
に続く。

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