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知られざる天皇の話

天皇と地図

 2019年5月1日、天皇が即位しました。

 今上天皇が地図マニアなのは地図マニアの間ではよく知られています。小学校低学年のとき自宅の赤坂御用地で「奥州街道」と書かれた標識を見つけ、著書『テムズとともに -英国の二年間-』の中で「鎌倉時代の街道が御用地内を通っていたことが分かって本当に興奮した」と書き残しているほどです。「本当に興奮した」というのが本当に興奮した感じでいいですね。

 小学校高学年で『奥の細道』を読破してさらに街道に興味をもち、学習院大学では街道の専門家である児玉幸多教授のゼミに入ります。

 児玉教授は善光寺街道最大の宿場町である稲荷山(千曲市)の生まれで、宿場を身近に感じながら育ち、東京帝国大学を出て宿場研究の第一人者となりました。戦後学習院大学に文学部史学科を設置しようとしたところ、GHQに「皇国史観を広めるのではないか」と警戒され、しばらく政経学部に所属しながらひそかに準備を進め、GHQが出ていったあとに史学科を創設して学科長に就任しました。その17年後に今上天皇が入学することになります。

 上皇が魚類の、昭和天皇が粘菌や植物の研究者であったように、皇族は伝統的に理系の研究者が多いです。この理由は「政治学や史学に首を突っ込むといろいろまずい」からで、たとえば昭和天皇は学生時代文学が好きでしたが西園寺公望に理系を勧められたという話もあります。

 これは欧州の王族にも共通する伝統で、有名なところだとルイ16世は物理学や工学に明るく技術将校レベルの知識を持っていました。日本では愚鈍なイメージがあるのはシュテファン・ツヴァイクの伝記が悪いと寺田寅彦も言っています。

 一方で今上天皇は珍しく文系に進みました。卒論では室町時代の瀬戸内海における水上物流史を扱い、修士でも引き続き中世の交通史を研究するつもりで南北朝時代の政治体制に踏み込もうとしたところ「それはいけない」と周囲に止められたというエピソードがあります。

南北朝正閏論争

 南北朝といえば南朝と北朝どちらが正統かご存知でしょうか。歴史の授業でやったかもしれませんがあまり深く触れないところだと思います。

 宮内庁が発表している天皇系図を見てみましょう。天皇の下に記された数字を追ってみてください。

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 通し番号は南朝に振られており、北朝は「北1」「北2」と傍系となっています。公式見解では南朝が正統とされているわけです。

 しかし現在の天皇家は北朝の子孫であり、南朝の子孫は断絶しているとされています。江戸時代までの朝廷は伝統的に「北朝が正統である」との立場を守ってきました。ではなぜ現在では南朝が正統と定められているのでしょうか。それを知るためには今から100年ほどさかのぼる必要があります。

 1910年頃「南北朝正閏論争」という論争が巻き起こりました。閏(じゅん)は閏年(うるうどし)の閏で「正しくない、異端なもの」という意味です。きっかけは幸徳秋水が大逆事件の秘密裁判で、「今の天子は南朝の天子を暗殺して三種の神器を奪いとった北朝の天子ではないか」と発言したことにあります。

 当時の教科書では南北朝は「並立」の扱いとなっていましたが、これを受けて一部の新聞が「どちらかに統一して大義名分を立てないとニヒリストに口実を与えることになる」と書き立てます。

 これを政治的に利用したのが、当時野党だった立憲国民党の犬養毅です。首相の桂太郎が「学問のことは学者に任せておけばよい」との考えを示したのに対し、「なぜ統一しないのか」と政治論争を吹っかけ、桂内閣は犬養の懐柔に失敗して政権危機に陥ります。この論争を経て最終的に「南朝が正統である」と決定されるわけですが、ここでもう50年さかのぼってみます。

 幕末期に公家の多くは一貫して「北朝正統派」だった一方、そのカウンター勢力として現れた維新期の志士たちは「南朝正統論」を軸とした尊王論を主張し、守旧派に対抗しました。彼らは南朝の天皇を祀る神社を再建したり、歴史書を新たに編纂し、北朝の天皇は「天皇」ではなく「帝」の語を用いたりしました。倒幕運動にあわせて「南朝再興運動」を活発にしていきます。

 このときの志士たちが50年後に長老となり、陰に陽に力を持っていました。特に長州の大先輩で桂太郎の後見人となっていた山県有朋が「まあまあ南朝で統一しようじゃないか」と場を収めた、というのが真相です。イデオロギー闘争のもつれとして南北朝が利用されたわけです。

 この南朝正統論を明治天皇が認め、「吉野朝時代」に書き変わり、「南北朝時代」という言葉は教科書から消えます。しかしやはり現天皇家は北朝の直系であるためおかしいという声も根強くありました。紆余曲折を経て現在は「南北朝時代」という言葉が教科書に戻ってきています。

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 南朝の天皇が本拠とした吉野朝皇居跡。金輪王寺と名を改めましたが明治期の廃仏毀釈で廃寺になりました。

熊沢天皇

 先ほど「南朝の子孫は断絶したとされている」と書きました。かつて南朝系の宮家として玉川宮、小倉宮、護聖院宮などが存在していましたが、足利義教が南朝根絶の方針を打ち出し、暗殺や流罪などで遺児を含め全員歴史から抹消されました。後々「俺は南朝の末裔だ」という者を担いだ反幕勢力が現れないようにするためです。

 しかし実際に血が途絶えたのか真相は分かりません。この懸念が現実になった時代がここから500年後に訪れることになります。

 終戦直後の混乱期、不敬罪が廃止されたことや今後の政治体制が不明確になったこともあり、「我こそが南朝の末裔で正統な皇位継承者である」と自称する人間がわらわらと10人ほど現れました。その中で最も有名なのが熊沢寛道、通称熊沢天皇です。

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 熊沢天皇は1945年11月、マッカーサーに「自分は後醍醐天皇から数えて22代目である。昭和天皇は北朝系の偽天皇であり、南朝正統の自分に皇位を返還すべきである」という請願書を送りつけます。

 これだけなら単なる虚言癖の男として誰の記憶にも残らない話なのですが、歴史のもつれは面白い方向に転がります。

 1946年1月下旬、熊沢天皇の記事がLIFE誌、AP通信、ロイターなどの国際メディアに立て続けに掲載され、世界中に報道されました。これを仕掛けたのは当のGHQです。GHQがアメリカ人記者4人を熊沢天皇に引き合わせて取材させ、センセーショナルに報道させることで彼を有名にしようと試みたのです。その中には戦争映画の傑作『史上最大の作戦』や『遠すぎた橋』の原作者として有名な従軍記者のコーネリアス・ライアンもいました。

 「LIFE」1946年1月21日号はGoogleによってアーカイブ化され、誰でも閲覧できるようになっています(上のリンクが熊沢天皇の記事です)。記者はリチャード・ローターバッハ。カティンの森事件やナチスのユダヤ人虐殺をいち早く報道した人です。

 当時GHQは、昭和天皇を戦犯として処断するか、それとも維持して統治に利用するか、どちらを選ぶか流動的な状況でした。そのため、何らかの形でいつでも利用できるように熊沢天皇というカードを持っておこうとしたのです。この直前の1946年に1月1日に昭和天皇に「人間宣言」をさせており、その権威をさらに相対化させようとした意図もあります。

 このお墨付きで勢いづいた熊沢天皇は、自らの正統性を主張するため全国行脚に出かけます。そこにはGHQの警護がついていました。

 当時の熊沢天皇ブームは今では想像できないほどで、全国各地に熊沢天皇後援会の支部が設立されました。昭和天皇が愛知県に行幸に行った際、侍従に「あれが熊沢天皇の実家です」と言われた記録が残っています。

 しかし結局GHQは昭和天皇を維持した方が統治しやすいだろうと判断し、天皇は国民の象徴として残されることになります。熊沢天皇は利用価値がなくなるどころか邪魔な存在になり、GHQの警護は監視に役目を変え、周囲の目は冷淡になっていきます。

 その後熊沢天皇が脚光を浴びることは二度となく、1951年に「現天皇不適格確認訴訟」を起こしますが門前払いされ、1966年に失意のうちに生涯を終えることになりました。

 しかし熊沢天皇の話はここでは終わりません。熊沢天皇が亡くなった6年後の1972年、ふたたび熊沢天皇がメディアを賑わすことになります。実は熊沢家には自称熊沢天皇が他に3人おり、そのうちのひとり熊沢信彦が10億円の脱税容疑で逮捕されたのです。

 こちらの熊沢天皇は政財界にコネを作る才能があったようで、日本鋼管(現・JFEホールディングス)という大企業に食い込んで莫大な顧問料を受け取り、土地を転売して儲けていました。目黒の豪邸に8人の愛人を囲い、運転手付きの高級車3台を乗り回し、毎晩銀座の一流クラブで豪遊していたという私生活はまさに「天皇」で、週刊誌の格好のネタになりました。

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