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ポップさとオーセンティシティ──Rae Sremmurdのライブから

Rae Sremmurdのライブを観た

先日、Livenationの酒井さんに誘っていただいてRae Sremmurdのライブに足を運んだ。場所は新木場スタジオコースト。自分で関わったり友人が出演したりしていないライブに足を運んだのはいつぶりだっただろうか。もともと朝まで遊ぶのが苦手だったが、社会人になってからは終電前に終わるライブにもほとんど行けなくなってしまった。

平日の19時からで、7000円というチケット価格にもかかわらず1000人くらいの観客がいたように思う。観客が結構良いものを着ていたのが印象的だった。冬なのでアウターを見れば服にどのくらいお金をかけているのかがだいたいわかり、「やっぱり洋楽ファンは服にも金ちゃんとかけるのか〜」などと思っていたが、後から考えれば単にチケットの価格に比例していただけかもしれない。

グローバルテンプレートとしてのヒップホップ

本編はもちろんだが、前座のYENTOWNとAIWICHも非常に盛り上がっていた。若干驚いたのはRae Sremmurdと彼らのオーディエンスが被っていたことで、これはヒップホップ以外のジャンルではなかなか見られない現象のように感じた。他のジャンルであれば、洋楽/邦楽という区分と距離感がまだしぶとく残っているように思える。たとえばMTV観てるやつと地上波観てるやつとではマインドが違う、とか。The Weekndと、その前座で出ていた米津玄師でも、観客はどっちかしか聴きに来てないんじゃないかとか。対してヒップホップは、そうした国内外の壁を乗り越え、グローバルな流通に成功している文化フォーマットになっている。Rae SremmurdとYENTOWN、AIWICHのオーディエンスの被りは、日本のアーティストやシーンにとって目指すべき方向性を一つ示しているように思えたし、日本の音楽産業に久々に見えた希望のような気がした。

ポップカルチャーとしてのヒップホップ

今回は誘ってもらったこともあり、正直ちゃんとRae Sremmurdを聴いたのは直前の予習くらいだった。当然フィジカル盤は持ってないし、観てみたいとは思っていたけど特別な思い入れがあったわけではなかった。

しかしライブを観てみると、意外にもほとんどの曲を知っていた。歌うことができる曲さえあり、「知らないはずのに認識している」という不思議な感覚を味わうことになった。帰り道にJun Yokoyamaと歩きながらその理由を考えていて、バスケのハイライト動画とそこで流れる「Rae Sremmurd - This Could Be Us (Arman Cekin & Ellusive Remix)」のことがふと頭をよぎった。「音楽」として意識的に聴いてはいなかったが、インスタのミームやバズコンテンツを通じて無意識のうちにRae Sremmurdの楽曲が耳に入っていたのではないか。例えて言うなら、一度も曲として聴いたことがないのに、高校の時にバスケ部同期が毎回カラオケで歌っていたから、気づいたら歌詞まで覚えてしまっていたKAT-TUNの歌のように。

インスタが普及する前のメディア環境だと、「洋楽」は専用のメディアだったり、特定のアカウントだったりに能動的にアクセスしないと耳に入ってこない状況だった気がする。しかし今はインスタのレコメンドのアルゴリズムによって、多少なりスポーツやファッションに興味があれば、アメリカのヒップホップが自然に自分の耳に入ってくる状況になった。そこが、これまでの音楽体験をとりまく環境とだいぶ違うところだと感じている。

家に着いてからツイッターの過去ログを見ていて、ちょうど2年前にも同じような文脈でRae Sremmurdの曲について言及していたことに気付く。ビルドアップ後にドロップがわかりやすく入るこのエディットは、当時スポーツのスーパープレー系動画でたくさん使われていた記憶がある。いわゆる黒人文化だったり、ヒップホップだったり、インスタだったり、ティーンの間で流行るカルチャーがそのままマスにも受け入れられているのがアメリカの文化だったのかもしれない。そしてそれがグローバルに色んな国に流通している。日本で考えれば、ギャル文化がまだ生きててガンガン後発も育ってて、それがテレビでもインスタでもとにかく話題になってるみたいな状況だ。対して日本ではマス向けの媒体を使ったカルチャーと、いわゆる「ポップカルチャー」がだいぶ分離してしまっている。

グローバルで、かつ親しい

今回のRae Sremmurdに関連して、印象的なことがもう一つあった。ライブの前夜、会社で一番仲の良い同期のマサキカトウが、Rae Sremmurdの片割れであり、彼がずっとファンだったSlim Jxmmiとツーショットを撮っていた。マサキカトウはミネソタ大学出身で、アトランタを中心にサウスのヒップホップに詳しく、バイブスも高く最高に面白い。普段も夜遅くなると2人で会議室を締め切って爆音で音楽を流しながら一緒に仕事をしたりしている。彼はRae SremmurdのバックDJのインスタストーリーから、彼らが飲んでいる西麻布のバーの場所を割り当て、直接DMをして差し入れと共にバーに遊びに行って仲良くなったのだという。

マサキカトウは以前から自分が好きな曲を集めた「Real Ninja Radio Japan」というSpotifyのプレイリストを人知れず公開していた。それをSlim Jxmmiに見せると、すぐに「お前はリアルだ。分かってる。こんなトコに居ないでアトランタこい」と言われたのだという。彼はこの出来事と、初めて聴いた時に共感しすぎて涙したというFutureのニューアルバムに勇気付けられ、来月会社を辞め、自分の愛するヒップホップやトレーニングに関わる道に進む。この話自体も最高にいい話なのだけど、Rae Sremmurdのようなグローバルレベルのスーパースターであっても、バイブスが合うかどうかの認識が一瞬で共有され、誰でもすぐに彼らの“友達”になれるということがすごく興味深かった。

いわゆる「芸能」の領域ではこうはいかない。テレビやCMに出ると芸能人になり、急にファンにサインを求められるイメージがある。ヒップホップの場合、本当に幼い頃からつるんでたやつとラップをして、それを外に伝えようとして自然に東京に来てしまう感覚だ。だからこそ、その過程で現れた気が合うやつ(マサキカトウ)も、ファンではなくリアルな“友達”として扱えるのだと思う。

ここでのヒップホップは、こうした出会いを支えているメディアとしての役割を(インスタなどと併せて)果たしている。前回の記事で書いたTohjiくんたちも近い話をしていたが、まず先に音楽を通じて実現したいコミュニケーションがあって、インスタとヒップホップはそのための手段になっている。マサキカトウの件はそういう意味で、非常に今のヒップホップっぽいケースだなと感じた。

Rae SremmurdにせよTohjiくんにせよ、ベースとしてはまず内輪なクルーがある。そこから外側に自分たちを広げていく手段として、グローバルに流通しているプラットフォームとフォーマットを使う。インスタとヒップホップは、その「広げる」ということの意味合いを変えたように思える。不特定多数の人間がいる公的空間やシーンに撒くのではなく、自分たちのバイブスやアティテュードを、コンテクストを共有する相手に広く伝播・浸透させていくイメージ。だから今のヒップホップは、自分たちのアティテュードを変えずに大きなステージでやっていけるのではないか。

ポップさとオーセンティシティ

前述したグローバルレベルで共有される、プラットフォームを通じたポップカルチャーとしてのヒップホップ。そして、文化としてのAuthenticity(真正性、リアルさ)を保つための「手段」としてのヒップホップ。この二つがお互いに相互関係しつつ並行しているのが、まさに今のヒップホップカルチャーだなと感じる。

同じ「広がる」でも、マスカルチャーとして広がるのと、ポップカルチャーとして広がるのとではまったく違う。僕が小学生の時にMTVなどを通じて観ていたゼロ年代ヒップホップは、それまで内輪でローカルだったものが、マスメディアによって急激に広がり、記号化・形骸化した状態だった。対して今のヒップホップは、インターネットや新しいグローバルに流通するプラットフォームによって、ジャンルが元来持っていた面白さを取り戻しつつ、同時に展開がグローバル規模になっているため、同じ「ヒップホップ」という言葉で切り取っても全く違った流通と受容をされているように感じる。

広がりとリアルさ。この2つが両立できるからこそ、いまのヒップホップは、お金を稼ぎながらリアルであり続けること、スケールを大きくしていきつつも仲間と面白いものをやり続けることのロールモデルになっているのだと思う。

同時に、ヒップホップやそのクルー性が「新しいビジネスモデル」として語られることや、あからさまなマーケティングによるヒップホップの利用に対する違和感は、ここからくる気がしている。つまりその時、文化のAuthenticity(真正性、リアルさ)を保つための「手段」としてのヒップホップという視点は抜け落ちてしまい、まるでヒップホップ自体がお金を儲けたり、市場に対して新しい価値を投げかけるかのように語られるからだ。

目の前にある事象が、マスに当てられるために作られた文化・メディアなのか、それとも“ポピュラーな”文化なのか。この区別に僕らはもっと敏感にならなければいけない気がしている。
(写真:マサキカトウ)


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