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続⭐︎なめらかでないしぐさ祭り

写真は「どっこい生きて鱒の衣」

 Tシャツを白飯と見るか鮭を沢庵と見るかを読者に委ね、フォントは刻み海苔。「足りないのは豆腐くらいさ」 私はTシャツと呼ばれる弁当を持参し『なめらかでないしぐさ 現代美術 in 西尾市』に足を運んだ。

 前回までのあらすじ。
「柄の無い斧……だ と……」 繊細な屏風は風も戦も防ぐ。南に向いた拾弐斤の『斧扆ふい』とは「パワー」であり「カルチャー」であり、船載物ゆえその捉え方は横文字……あ、間違えた。斧扆はフロム東洋。だもんでカタカナ表記は間違いであり、もっといえば引っ張り出す記憶が違っていた。
「ええっと、なんだっけ……ああ、そう!」 私は西尾に集結した現代美術芸術祭、危険な前衛の潜入調査に向かった。芸術祭、「祭」という文言が数珠繋がりに真夏の西尾祇園祭出店体験を想い起こさせる。ミイラ取りがミイラになるように、日中水分を取らなければ包帯巻きの乾き物に傾く、そうこの夏は暑暑で、当時の記憶を大まかに表すとこんな感じです。
「波状だわ。たまげろ、猿の赤ちゃん」 そう、文字通りそれは波状。文字通り数年前は猿の赤ちゃんに限りなく近かかったキッズども。くじ引き屋台に発奮し、我がつま先を刃渡り凡そ23.5cm柄の無い小ぶりなスニーカー型ヒートホークで踏みつけにかかる。
「だからあ、近けえ、近けえんだよ。C H I K E E」そう「ちけえ」といえば「地形」であり、江戸初期、治水対策のため西尾市に流れる川筋改造を命じた徳川家康。その「川違かわたがえ」を取り込んだ作品が此方。
 柄澤 健介 (1987-)
 『道』
 2023年
 木 / 蝋 / 鉄
 水は高きより低きに流れるその連続を蠟でけち止め、「乾きました」川筋に表す乾木は、枯山水をも思わせられる。も一度隣の湿潤白濁する木の川、パラフィンワックス固めは玉砂利にすら見え始め、縁には私の好きな断面図もあったりで、楽しい楽しい川遊びが設られていた。表と裏がひっくり返る昨今、岩瀬文庫地下1階に脈々と堰き止められている本作からは何かと想起させられ……ま……し……そうだ! 私は作品ガイドツアーに参加していたんだった。

 来たる人工知能時代を啓蒙し、喝、喝と我々は階段を踏み締め岩瀬文庫二階、複製された江戸から明治初期頃の過去文献を回し読み、日本和紙を始祖とするその紙手触りを確かめ、わいわい、やんやんやとやって、我々ボランティア作品ガイドツアーの話を聞くよ四名のパーティーは山口さんの作品展示室へ向かって行く。

・岩瀬文庫 2階 現着
 山口 麻加 (1991-)
 『項にふれる』
 2023年
 モノタイプ / コラグラフ / インクほか / 紙
 初日に作品を目にし、真っ先に思ったのは「むずかしいな」で、ある。本作をどう解釈したらいいのか、私は表面的なことでしか見えていなかったのだが解説員の話を耳にすると、「ああ、なるほど」と、同じ物を見ているのだが、知る以前とその後で捉え方は大きく変わった。
「正に現代アートらしい」解説員は本作について、この言葉で結びかかる。現代アートを概要化する際に使われがちであるこの言葉。だが私は「古典も同じではないだろうか」と、思うのです。
 というのも源氏物語の作中に書かれた色彩を、当時の文献、歴史に基づき再現した企画展『王朝の色に挑む』へ、日本クラシック文学『源氏物語』の認識は「名称は知っているが、中身はちょっと……存じ上げません……ね」満遍なく至らない私が鑑賞を挑み、その際に抱いた思いがあるがためです。
「外国から来られた方が思うこととは、こういう感じになるのではないのだろうか?」 仮に多言語化された作品解説文を読だとしても、作品をどう受け取るかといえば、対象が具象であるものの、配色や形、作り込みの美しさを抽象的に味わうのであろう。歴史背景、文脈が担保されていなければ、作品の捉え方は枠組みに写し出された均衡と、色という表層への感受にならざるおえず、配色とその作り込み、織や透かしを目に、好みに応じて心を動かし、好みは次第に良し悪しとして判断されていきます。しかし、それは本当に良し悪しの判断なのでしょうか?
『失われた色を求めて』 という映像作品タイトルから始まる企画展『王朝の色に挑む』が意味することは染師の挑戦ディグりであり、同時にそれは受け手にも当てはまる。羽織にまで形取ればまた違ってくるのでしょうが、源氏物語という物語から色を発掘し、重ね合わす反物展示は抽象化ましまし、鑑賞側に源氏物語という素養の有無で、同じ物を目にしていても受け取り方は違ってくる。
 色を発掘された源氏物語 全八巻に貼られた付箋は「おい、なんだこれ」禍しさも醸し、物語から色を拾うため、どれだけ読みこんでいるかを伺えれます。ビジュアル的苦労を評価の判断基準にすべきではないとは思いますが、その苦労は表層に必ず滲み、詳細は理解出来ないが、そうした滲込みを目にし、「好きか嫌いかとは別で、何か引っ掛かる」という心の動きが生じました。
 良し悪しという二つの評価の間にない、異なる到達点というものが作品から抱く思いの中にあるはずです。
 理解出来ない対象に出会うと人は概ね否定するものであり、怒ったり、下げたりするものですが、自身への検証はおざなりにされがちです。「いや、むずい。わかんないっすね」と、いう素直な気持ちに相乗りする否定を切り離せず、世界中に発信する理由が私に見つけられずにいましたが、現代美術芸術祭を媒介に、こうして取り上げれるとは予期出来ませんでした。
 つまり、断絶した時代と、最新の現在というのは同一ではないが、近しいものが第三者に生じることがあり、知ることで「ああ、成程」に至り、それは持論の「物事を楽しむためには、学ぶ必要がある」ということ他ならず、義務教育を途中から放棄したとしても、学習する方法は現代においては様々にあることを羽織のように重ねここに記載致します。
 過去の人々は義務教育を受けたくとも受けれずも学んでいたわけで、整えられた学習経路の内にも外にも学ぶ場面は過去にも現在にもあり、ここでも現在と過去が交差します。
 画一的な方法を検証出来ていなければ、その枠組み内で良し悪しを判断していくことは不思議ではありません。その反対側に無責任の無限の自由が存在している気がしております。自分の好きなことを入り口に世界を広げる方法と、全く知らない世界との偶然の出会いや、専門家により開鑿するという手段を経験しましたので、社会から溢れるそこの諸君、少しづつ掘削してしまえば良いだけ「だああああ」
 尚、山口さんの作品会場に置かれた走る罫線の紙には触れることが出来ます。なめらかでない手触りに、そもそも印刷機自体が版画のオートマトンに他ならず、手作業による時間のリバースエンジニアリング作品でもあることを思わさせられました。
「でも、わたし知ってる……ブルーノートって意味だってね」 五線譜のような抉られた手触り、罫線を嬲っていると「ピピピピッ♪」 設定したタイマーが木霊する。
「あっ、Tシャツ塗らなきゃ! だもんでここで失礼します」 やおら参加したツアーパーティーメンバーと解説者ゲームマスターに別れを告げ、Tシャツを抱え、彼らを振り切るため走りシルクスクリーン会場に向かいます。
「ええい、ままよ」俺は塗る。ズダダと、走ったから直ぐだった。

・岩瀬文庫 1階シルクスクリーン体験会場 現着
 期間限定であるシルクスクリーン体験は大人気。」鼻息荒げ塗り順を待つ間、図柄をどれにするか熟考と熟考を重ね……「新巻鮭。君に決めた!」 お色は?「黄色に、決めた!」 するとよいよ打順が巡り、「位置、右気味に決めた!」Tシャツにシルクスクリーンを重ねると、さすればすかさずプロによるシルクスクリーンの抑え込みが始まり、共同作業は差し詰め鮭の捕物帳。私はリヒ兄が使うようなヘラを概ね入射角45°で三度ほど裏漉し。次に設られたスーパードライニングマシーン 段ボール的 を上から重ね、ヒートアップ。乾きを待つ間、関係者のようなそぶりでシルクスクリーン未経験者どもをやや上から、概ね45°の目線で見守りつつ「ブォオオオオオ」っていると……「完成! うお、いいやん!」
「ありがとうございます。金も落とさず、すんません」 シルクスクリーン体験を運営するスロメの旦那はシルク スクリーン マシーンと化し、氏に礼を述べ、会場を後に。
「ありゃ、今日の休みはねえぜ」

 岩瀬文庫入り口に立つお姉様と再び邂逅。次回開催を見据え袋に入れたまま保管していた『国際芸術祭あいち2022 STILL ALIVE』のTシャツをここぞと持ち込み、塗る。乾く。自慢の出来立てドライヤーで温めたほかほか弁当を見せつけると「判る判る」と、口にし、お姉さんは私物のトートバックを此方へ見せる。そこには『国際芸術祭あいち2022』のロゴ。
「おお、どっこい生きてる!」ここ岩瀬文庫入り口前にて2022年がクロスライン。力作「どっこい活きて鱒の衣」出来上がりに、「かっこいいかっこいい」と、望み通りたんと褒めてもらい「へへ、ジャズ……」 鼻と上唇の間をズキュズキュやって「じゃあね」つって、岩瀬文庫から退館。
 コップいっぱい口縁こうえんひたひたに承認欲求を満たし、乾き知らずの俺は嬉しくて、犬の尻尾を振るが如くTシャツを振り回し、中庭のビックドックに「アディオス鉄犬」と、日本語で話しかける順調な仕上がりを発揮。人生のハーフライフを越えた私は崩拳ぽんけんステップで次へ向かうワン!
☆崩拳とは、プレイヤーキャラクター左側時のコマンド ↓↘︎→+右パンチボタンで飛び出す、相手ポンポンにズンドンの一撃。

・西尾市資料館駐車場 現着
 図書館駐車場が閉じられることを恐れた私は、次なる駐車場所を求め移動。道中予期しない物との遭遇。それは信号待ち中、横断歩道を渡るご夫妻とその連れ合いの犬。犬種はボーダーコリーと呼ばれる白黒の2ステップ。で、道路横断中に何故だかそのジャズ犬、我が顔を驚嘆の表情で三度見る。
「えっ、何で?」その反応に私は車中言葉を零す。当時の私は前衛取締官という正体を隠すため、犬の被り物を着用するという悪目立ちは避け、尚且つ「うさちゃんだわ」と自称しておりますが、ふわふわっとした被り物となるとそれは「ちょっと……ね……」 表層的なファンシー寄せに、安易な媚び諂い、キャッチーでポップな売り込みを遠のけ続ける自意識、忌避感が働きかけ続き、何も被らず偽りではないことを伝えたいがため、何時も通り迂遠となりましたが、まあそういうことです。
 そうした私に向けられる見返りけんの真意は不明。仮に何か言わせたとしてもどうせ四つ足、「ワン」のとかその辺りに留まるゆえ、聞いたところでね……。
 横断歩道を渡りきると、犬だけが振り向き、累計四度見に至る。
「あ、あれ。神農さんの作品?」

・旧上田家具店 現着
 岡本 健児 (1980-)
 2022年
 『無題』
 油彩 / キャンバス
 岡本さんはありもので描くマクガイバー的。作家解説に書かれた文章から思うことを、後に記したい。
 会場はソファーが準備され憩いの間、即席のサロン化し、掲げられた大きな点描を眺め茶でもしばき、その奥には別作家の作品が展示される。

 キ・スルギ (1983-)
 2023年
 『なめらかなしぐさをまねる』
 アーカイバル / ピグメント / プリント / 木製の額
 作家:茂木のり子のアーティスト写真を写真家キ・スルギがコスプレイし、ノスタルジア、時間の層を重ね再現。異国の視点とは、言語に方言があるように、外国語と母語が混ざり合うように、対象との距離、及び時間が離れることで着地、入社角に変化が生じやすくなるのではないでしょうか。それを表したのが『バベルの塔』かと思います。比喩として鑑み、高さを距離、権力の象徴、業の表しと置き換え読める逸話が如何に素晴らしいか。神話の真実性は脇置き、風雪に耐えた訓戒というのは現在にも繋がっていきます。
 またこの会場に面した通りは西尾祇園祭で出店を手伝った通りであり、数ヶ月前の記憶が私の中にばしばしと到着し続いていた。旧上田家具店はお化け屋敷に化け、キッズどもの暑くなった肝を冷やしていたのだが、記憶とは正にお化けだ。不意にその姿がはっきりと頭の中に見えたかと思えば、手繰り寄せるとゆらりと喪失し、記憶とは時間に比べ双方向性はあるものの、その橋幅は1.5車線もあれば良い方で、記憶と記録が違ってくるのは生物学的に生きている間四六時中発生し続くのでしょう。これをデジタル化しガチャガチャとした私の文体であり、ブロックノイズでもあります。
 それともう一つ。祭りに関わる記憶で気に掛かっていることが。西尾祇園祭関係者が着用するTシャツに施された家紋である。殺戮の連打痕はスイカを食ってる仏門を粉砕し、その難癖のつけた方は「踏ませていただきたい」という思考に対象を追いこみ、本物の地雷を踏ませることで有名な織田信長さんですが、その家紋を祭り関係者が背負っていることが私の気を大変強く引く。
 徳川家康を尊ぶ身としては大変緊張が走るロゴであり、帰宅後、西尾市と織田家家紋の関係性を調べたところ「こ……これは」

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