十禅寺梅虎

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娘への最後の手紙

ミラダー・ホラーコヴァーは処刑の前夜に一人娘ヤナに宛てて最後の手紙を書いた。彼女が貫いた信念と、限りない偽りのない娘への愛が切々とつづられている。 ミラダ・ホラーコヴァー(1901-1950):チェコスロヴァキア国民社会党幹部、国会議員。第二次世界大戦中はナチスによって強制収容所に入れられ、戦後はスターリン主義者によって捕えられ、1950年6月8日、みせしめ裁判で、チェコスロヴァキア共産党政権に対する「国家反逆罪」で死刑を宣告された。アルバート・アインシュタイン、バートラン

    • 杖と水瓶

      まだ紫式部も生まれていないような昔、今でいう奈良県桜井市あたりの国の話です。領主には3人の娘がありました。長女、次女、末娘、いずれもすばらしく美しく、気立てのよい娘たちでした。 領主は跡継ぎ問題で悩んでいました。当時、領主は男と決まっていましたので、娘の婿養子を跡取りにしようと考えていました。そして3人の娘のうち、どの娘が後継者にふさわしいか悩んでいました。 領主は娘たちに質問をしました。娘にとって父とはどんな存在だろうか? 長女は答えました、「お父上は、日輪を背負った殿上

      • みなし児と弥勒菩薩

        夫に先立たれた未亡人には6人の子供がいました。女手ひとつで子供たちを育てるために、彼女は馬車馬の様に働きました。昼も夜も休む間もありません。それでも、食べるものがなくなると、子どもたちを連れて森に入り、キノコや木の実をつんできては命をつないでいました。しかし、気力体力にも限界があり、彼女は体を壊して、とうとう動けなくなりました。死期を悟った母親は子供たちに、「お釈迦様を信じなさい。お釈迦様があなたたちを守ってくれます」と言い残しました。 母親が死の床にあるとき、お釈迦様は、

        • 河岸の歌声

          かなり昔のことで、当時の人はもう誰も生きていません。私も伝え聞いた話ですので、かなり脚色されているかもしれません。 互いに知らない人はいないというほど小さな村での出来事でした。その村は、山の斜面がV字型に迫っている谷間にあって、人々は谷底を流れる川の近くに軒を連ねて暮らしていました。日照時間は、夏でも5時間ほどで、あまり気温は上がりませんでした。むしろ肌寒いほどでした。過去に何度か山崩れがあり、山の中腹から斜面を転がり落ちてきたと思われる大きな岩が、河原のいたるところで水に

        娘への最後の手紙

          男と蛇

          "法華経普門品(ふもんぼん)第25に「弘誓深如レ海(ぐぜいしんにょかい)、歴劫不思議(りゃっこうふしぎ)」とある。 観世音菩薩が、仏の道によって、生きているものすべてを迷いの中から救済し、悟りを得させることを、自らの使命として誓う、その誓願の深さは海のようである。人智の及ぶところではない。" 昔あるところに、若い頃から鷹の飼育と調教を職業とする40歳前後の男がいた。常に数匹の鷹を飼っていて、鷹のベテラン調教師でもあった。ある時、調教し始めて日の浅い鷹が逃げてしまった。男は2

          紅の袴(はかま)

          越前の国(福井県)敦賀(つるが)に裕福な家があった。その家は、夫婦と一人娘の3人暮らしであったが、多くの使用人が働いていて、いつも賑わいがあった。両親は娘を大層可愛がっていた。それだけに、両親は、娘を一人残して世を去ることが、とても心苦しく心配だった。自分たちが生きている間に、娘を立派な男と娶わせて、安定した家庭を築いてもらいたいと考えた。両親は、いい男がいると聞いては、娘と結婚させたが、相手は長く居つくことなく去って行った。5回結婚したが、5回とも離婚という結果に終わった。

          紅の袴(はかま)

          女と蛇

          もう一昔前になりましょうか。 紫野にある雲林院(うりんいん)で、毎年、3月21日に行われる菩提講に詣でる道すがら、大宮から西院(現在の西大路四条周辺)にさしかかるあたりのことでした。私の前を一人の女性が歩いていました。年のころは20代半ばといったところでしょうか。ゆったりとした着流しに腰帯を締めて、草履を履いた足指がかろうじて見える程度に裾をあげたスタイルは、なかなかにキュートでした。 その女性が石橋を渡っていた時のことです。彼女が石を踏みつけて、体勢を崩してよろめき、思わ

          魂と肉体

          平城京、左京の五条六坊に、奈良の岩島と呼ばれた人がいた。岩島は、寺から集めた資金を運用して利潤を得て、それを寺に還元していた。このたび岩島は、越前(福井県)の敦賀(つるが)に商売の目的で出かけた。数か月間で大きな利益を得て、奈良に帰る途中、余呉湖(よごこ)のあたりで、彼は熱発して、全身倦怠感がひどくなったので、荷物を家の者に任せて奈良の自宅に運ばせ、彼自身は、北近江の長浜でしばらく逗留した。数日間、琵琶湖を眺めながら静養した。そのうちに熱もひき、元気を取り戻したので、長浜から

          文字を求めて

          大和(奈良県御所市近郊、金剛山の近く)に、法華経をひたすらに読誦して精神修養していた男がいた。丹治比氏(たじひうじ)の出であった。 その男は才気煥発で、8歳までに法華経をほとんど暗唱していた。ところが、何度繰り返しても、一か所の一文字だけがどうしても覚えられなかった。20歳を過ぎても、読誦していると、いつもその文字のところにきて一旦停止してしまうのだった。前世からの罪によるものだと思い、観音菩薩に祈って、仏前で懺悔し罪の赦しを請うた。 ある夜、夢の中に、ある人が出てきて言っ

          文字を求めて

          猿の生贄(いけにえ)

          美作(みまさか:岡山県)の中山神社には猿が祀られていた。猿は、農産物を荒らし、女子供を襲ったりする。そんな猿を祀ることについては、それなりの理由があったのだろう。当時の農民には、猿を撃退するだけの備えがなかった。鉄砲もなければ、ビリビリとくる電流を流す針金を張り巡らすこともない時代だった。だから、人間は猿の機嫌をとるしかなかった。 さて、村人は中山神社に、年に1度、生贄(人身御供)を捧げた。生贄となるのは、この村の未婚の処女と決まっていた。そして生贄として捧げられると、その

          猿の生贄(いけにえ)

          若君の失踪

          陸奥(むつ)の国に、申し分のない家柄で、仲の良い兄弟がいた。兄は国の府官で大夫介(たいふのすけ)と呼ばれていた。結婚後、子宝に恵まれなかったが、妻が40歳を超えて懐妊し、高齢出産で男子を出産した。一粒種の男子だった。妻は産後の肥立ちが思わしくなく、幼子を残して死んだ。大夫介の弟(=叔父)に子供はなかった。叔父夫婦は母を失った甥(=若君)を預かって養育した。叔父夫婦は若君をとても可愛がっていた。若君は何事にも優れた俊才だった。 寡婦あり。娘がひとりいた。大夫介が妻をなくしたこ

          若君の失踪

          犬の糸

          今は昔、三河の国にある郡司がいた。彼には2人の妻があった。本妻と最近知り合った女だった。本妻の家では、白い犬をペットとして飼っていた。犬の名前を「つむぎ」といった。彼らは蚕を飼って、糸を作っていた。それを売って、そこそこの暮らしをたてていた。ところが、ある年、なぜか飼っていた蚕が全部死んでしまった。稼ぎがなくなり、先行きが見えなくなった。すると夫はこの妻に寄り付かなくなった。新しい妻の家に入り浸りになったまま戻らなくなった。 本妻の家は貧しくなり、使用人もひとり減り、ふたり

          碁聖、碁うつ女に会う

          今は昔、碁をよくおうちになる天皇は、いつも碁聖に対して先手2目置きで対局されていた。ある時、金の枕を賭けて対局されたが、負けてしまわれた。碁聖は大喜びで、金枕を懐に入れて退出した。天皇は悔しがって、政務をとっていた者の中で元気そうな若者に命じて、金枕を取り返して来るよう命じられた。 大きなお屋敷だったので、碁聖はルンルンで長い廊下を歩いていた。廊下を右に曲がったところに待ち構えていた男たち3人が、碁聖に襲いかかり、素早く懐から金枕を掴みとって走り去った。碁聖が地団太踏んで悔

          碁聖、碁うつ女に会う