「生きる」と〈居切る〉
明日死ぬとしたら、伝えたいこと。
noteはこれを残す為に始めた。
今改めて、心に響かせている。
生きるから、居切るへ、
居切るから、生きるへ。
心が強く脈動していると、自分らしく生きよう、自分の人生を歩もう、と、
命ある時間を、自らの思いを表現するために使おう、という気持ちを持つことがある。誰かへの愛でも、未来への希望でも絶望でも、何であれ、自分の思いを。
その時、その人はまさに生きている、と思う。私は、「生きる」こととは、表現すること、伝えること、だと考えるからだ。
心の脈が今にも途絶えそうな時、
その日を無事に過ごすこと、ヤケを起こさず(起こしたとしても)、自分を責め過ぎず、他人も責め過ぎず、ともかく1日の終わりを迎えること、これを最大唯一の目標に掲げることがある。
これも、また、生きる ではあるのだが。
私はこれを〈居切る〉と言いたい。
生きるを、
「生きる」と、〈居切る〉に、区別したいのだ。
区別するが、もし、間に壁ができそうになったら、すぐさま壊したい。
「生きる」と、〈居切る 〉は、
もっと流動的であってほしいからだ。
「生きる 」のが苦しく、〈居切る〉に切り替える時、ステージから降りるような気持ちであって欲しくない。降りるのではない。主演であることには変わりない。ただ、違う演目だったのかもしれない、衣装替えかもしれない。
〈居切る〉から、見え易いところに、「生きる」があってほしい。「生きる」は、遥かな高みにあるものではないと、〈居切る 〉から、よく分かるようにしたい。なにかを登る必要はない。そろそろ行こうかな、という気持ちが、その足取りを軽くし、〈居切る〉から「生きる」へ連れて行くのだと。
「生きる」と、〈居切る〉、
同じであり、違うもの。それらが溶け合い、生きる になっている。そう、考えたい。
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