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BOOWYにまつわる噂のエトセトラ Vol.10 ~ LAST GIGSの打ち上げに布袋氏と松井氏が来なかったという噂 ~

【LAST GIGSの打ち上げに2人は不参加だったのか?】

ネットの海を彷徨っているとよく目にするのが氷室氏と布袋氏の確執に関する噂。この噂もそういう類い。BOOWYが喧嘩別れだったという根拠の一つとされるモノ。
Wikipediaにも当然のように書かれていて、「バンドが2つに分裂したという見方もあった」と。

言うまでもなく、LAST GIGSはBOOWYとして最後のライブ。そんなライブの打ち上げにメンバーが顔を出さないなんてあり得るのだろうか。しかも不参加とされた2人のうち1人は、自称「打ち上げの席でBOOWYを宣伝する広報係」な布袋氏。
解散宣言のあった1224であれば、とても打ち上げに出る気分になんてなれないと言われたら納得せざるを得ないが…。ライブ映像を観る限り、少なくともメンバーには1224のような悲壮感はなく、吹っ切れてやっているようにも見える。
なのに、いくら事務所から独立する布袋氏と松井氏とはいえ、打ち上げに来ないなんてことがあるのか。事務所からは独立したとしても、レコード会社は変わらない。打ち上げに来る関係者とは今後も付き合いが続く人も多いだろう。

確かに布袋氏は、解散した途端、「BOOWYを支えてくれていたレコード会社のスタッフやクリエーターのほとんどがヒムロックに雪崩を打ってついていったのでは…と疑心暗鬼になるようになった」と語っていたこともあった。そういう意味では、(布袋氏の主観では)自分を一番に扱ってくれないスタッフに対して恨みがましい気持ちというか隔意を当時抱いてはいたようだが…。それにしたって、ねぇ。

来なかったと名指しされている松井氏は、その頃のことをほとんど覚えてないとしつつも、「(LAST GIGSの)打ち上げはホテルのスイートで少人数でやったということくらいは覚えている」と自伝「記憶」に書いている。(※1)

名指しされているもうひとりである布袋氏は、LAST GIGSの打ち上げに関する発言は特段していない。(と思う。多分。)
布袋氏は、普段は饒舌すぎるほど饒舌で余計なことまで言って炎上しがちだが、自身にとって都合の悪いことは途端にダンマリになる(若しくは他人のせいにする)特性がある。そのため、打ち上げに参加しなかったのかも?と疑うことはできるが、布袋氏が話していないという一事をもってそう断じるのは些か早計に過ぎる。

残りのメンバーの高橋氏もLAST GIGSの打ち上げについては自伝「スネア」で触れていない
ただし、1224の打ち上げについては、後年、スポーツ紙のインタビュー(※2)で、こう語っている。

衝撃の解散宣言の後は、クルマで20分ほどの距離にある赤坂プリンスホテルで打ち上げがあった。「お疲れさまって、さーっと引けたと思うけど、あの日のこと、よく覚えてない人いっぱいいるんだよね。俺もどうやって赤プリまで行ったか記憶にないもん。たぶんみんなでワゴン車に乗ったと思うんだけど…」


ホテルでやったという点は松井氏の証言と共通だが、片やLAST GIGS、片や1224
どちらかが記憶を混同している可能性は否定できないが、これだけではなんとも言えない。

最後の一人、氷室氏の場合は、基本的に打ち上げに参加しないと有名な人。
氷室氏本人もそう言っている。
また、布袋氏の自伝には、布袋氏が当時交際中の山下久美子氏をメンバーに紹介しようとしたライブの打ち上げ(二次会)の席に、渋々氷室氏も同席してくれたというような描写(※3)もあり、BOOWY時代も普段から打ち上げ参加にあまり積極的ではなかったことをうかがわせる。
そしてBOOWYのLAST GIGSの打ち上げに関しては、氷室氏自身も言及していない

それを考えると、実は打ち上げに来なかったのは氷室氏の方ではないのか?と疑ってしまいそうになるが、LAST GIGS終演後の氷室氏の行動については、このようなスタッフの証言がある。

コンサート・ツアー中に、必ず1回はステージ・セットを組みたてているその現場に顔を出して、ふだんはなかなか直接会うことのできないようなスタッフ達に、"ご苦労様“と感謝の気持ちを伝えに行くのだという氷室は、ツアー最終日にも、後かたづけの場でたいてい同じようにみんなにお礼を言う。
「東京ドームで”BOOWY”が解散ライヴをやった時、すべてが終わった後、夜中いっぱいかけてステージ・セットのかたづけをやってたところに、突然氷室さんが現われて…。まだ寒い季節の夜中、4時頃でしたね。何でも打ち上げパーティーの後、現場の俺たちのところに挨拶しに来てくれたとかで。ものすごく感激しました」と、ステージ関係者のひとりが話してくれた。(※4)

この証言を裏づけるような記事もある。

すべてが終わったあの2日目の夜のことだ。
彼は真夜中にひとり車を駆り、もう一度"巨大なタマゴ”へ向かった。
ステージの撤去作業はまだ続けられていた。
つい、数時間前の熱狂がウソのように、鉄骨を崩す音が無人のスタンドに鳴り響いていた。
「あれっ?なにか忘れものでもしたんですか!?」
気がついたスタッフが怪訝そうに、けれど微笑みながら声をかけてきた。
(忘れもの、か)――彼には少し違った意味にもとれた。
ほんの少しだけ思い巡らせ、なにも”忘れもの”はないことを確認した。
あるとすれば、裏方で支えてくれた彼ら感謝の意を表すことだけだった。
だからこそ彼はもう一度ここへ戻ってきた。もう一度、現場のスタッフ直接礼を言おうと彼は戻ってきた。長い間ありがとう、そして、これからもよろしく、と。(※9)


氷室氏のサポートギターを長く務めていたPERSONZの本田毅氏が、「氷室さんは普段打ち上げには来ないが、ツアーファイナルとかそういう重要な打ち上げには顔を出す。」とラジオで話していたのを聞いたことがある。
(後年、多少嗜まれるようにはなったようだが)酒を飲めない氷室氏にとって打ち上げとは、「今日のライブ最高だったゼ!イェー!!」と本人達が盛り上がって打ち上がる場ではなく、ライブのために頑張ってくれたスタッフを慰労する場としての要素が強いのかもしれない。

実際、1224Film GIGのパンフレット(※5)にも、1224のライブ終了後について語るスタッフの言葉がこう紹介されている。

実は僕、12月24日が誕生日なんですね。で、当日はライヴが終わって、すべての後片付けをしてから、もうひとりのスタッフと六本木へ飲みに行ったんです。で、「終わっちゃったね」なんてしんみりしてたら、打ち上げ後の氷室さんがケーキを持ってきてくれて。そんな日なんだから、自分のことで精一杯なはずなのに、ちゃんと覚えてくれてて。アレにはホント、感激しましたね。


氷室氏は、普段は打ち上げに参加しないが、重要なライブの打ち上げには参加し、スタッフを労いに行く。
となると、氷室氏はLAST GIGSの打ち上げには参加していたと思われる。
だが、打ち上げにメンバー全員が参加していたのか、将又、噂どおり布袋氏と松井氏が参加していなかったのか、これだけでは実際の所はわからない。
そう考えていたところ、興味深い話を聞いた。
2016年に開催された「BOOWY HUNT 〜FUNKLOVE〜」というファンミーティングで披露されたエピソードだという。

そのイベントに参加された方のレポによると、LAST GIGSの打ち上げ赤坂プリンスホテルで、7~8人の少人数で行われたとのこと。そしてスタッフ(ソロ初期の氷室氏のファンクラブ会報にも度々登場されていた御方)が大号泣していると、「オマエ以上に泣きたい奴がここに4人もいるんだから、そろそろ泣き止めよ」と氷室氏から宥められたそう。

このファンミーティングの出演者は、当時のBOOWYスタッフやメンバーの高橋氏。そんな彼らによって、しかも複数人の共通の記憶として語られていたエピソードである以上、信憑性のある話と判断してよいだろう。松井氏の証言とも整合性が取れるし。高橋氏は1224の打ち上げを赤プリでやったと話していたが、高橋氏が勘違いしたか、或いは1224もLAST GIGSもどちらも打ち上げをそこでやったのかもしれない。

【噂の発生源】

そこで疑問に思うのが、赤プリでLAST GIGSの打ち上げが行われ、メンバー4人とも参加したというのが真実であるのならば、何故、布袋氏と松井氏がLAST GIGSの打ち上げに来なかったという噂が流れたのか。
ただのデマ?
例え全くのデマであったとしても、そのデマが生まれたのには何か理由があるのではないか。
そう考えた私は、ネットでその噂の発生源を遡ってみた。
残念ながら、その噂をばらまいた最初の1人には辿り着かなかったが、ヒントとなるような共通の事柄を言っている人が何人かいた。

曰く、
①布袋氏と松井氏がLAST GIGSの打ち上げに来なかったと言っていたのはイベンターである。
②LAST GIGSの打ち上げは日清パワーステーションで行われた。

パワステ????
今はなきライブハウス、日清パワーステーション。
バブル期に日清食品東京本社地下に建設され、1998年に幕を閉じた大規模ライブハウスだ。
赤プリのスイートで少人数で打ち上げたという関係者の証言とは対極
どういうことだろうか?
証言者はイベンターだという。BOOWYのLAST GIGSのイベンターはディスクガレージ。

ということで、ちょっとネットで検索してみたところ、ディスクガレージ社長が語るLAST GIGSの想い出を紹介するコラムが見つかった。

東京ドームでの思い出は、初日終わったあとすぐに出て打ち上げで赤プリ(赤坂プリンスホテル)に行って。そこで、布袋さんがまこっちゃん(高橋まこと)に「『IMAGE DOWN』のリズム早いんじゃない?」ってシーンがあって。「あれ、解散するんだっけ?」って、なんかよくわからなくなりましたよね。ライブの内容を本気で話し合ってるんですよ。明日、最後をむかえるバンドが、ですよ? (※6)


ディスクガレージの社長は、赤プリで打ち上げたと言っている。但し初日。2日目の本当に最後のライブの日の打ち上げがどこであったのかは、この発言だけでは判断できない
だが、ファンミーティングの時に語られた「BOOWYスタッフ大号泣」は、初日ではなく2日目のエピソードと考える方が自然。となると、2日間とも打ち上げは赤プリで行われたのか…?
それならば、どうしてパワステが出てきたんだろう?

また、上記で引用した2019年のコラムでは、曲が速いと言っていたのは『布袋さん』と言っているものの、2001年に行われたインタビューでは、「初日の終演後、ヒムロックが『あの曲、ちょっと速いんじゃない?」なんて言って普通に反省会をしていて、"明日で解散するのに……"と不思議な感じがしたのをよく覚えている」と同氏は語っていたりもする(※10)。こういった食い違いを考え合わせると、長い年月で記憶のすり替えが他にも色々起きてしまっている可能性は否定できない。

何が真実なのか。
……考えてもわからない。
わからないなら暫く棚上げ、とばかりに放置して、そんな疑問を覚えたことすら忘れかけていた頃、我が家の本棚から1冊のを見つけた。

その本は「1000DAYS OF ROCK’N ROLL パワステ・ブック」。
日清パワーステーション建設の経緯から1990年までのライブ記録・ドキュメント・データを纏めた本で、1991年3月に発行されたもの。

注目すべきは1988年4月のパワステ出演者完全カレンダー。(※7)
BOOWYのLAST GIGSは1988年4月4日、5日。その日のパワステのスケジュールは、4月4日「保守点検日」、4月5日「種ともこ」。
なーんだ、別の人のライブが入っているじゃないの。と思った次の瞬間、4月のカレンダーの横に視線を動かすとそこには、氷室氏の横顔の小さな小さなスナップショット。その写真には「4.5. 氷室京介 BOOWY BIG EGG 打ち上げ」とのコメントが添えられていた。同書には、「このころはツアーの打ち上げなどプライベートユースもけっこう多かった」の一文も。
ちなみに、氷室氏のソロとしてのファーストツアー”KING OF ROCK SHOW”の打ち上げについても「氷室京介パーティ」として1989年1月4日のスケジュールにしっかり記載されている。

パワステの全記録を網羅したと豪語するこの本に掲載された写真とコメント。つまり、BOOWYのLAST GIGSの打ち上げは日清パワーステーションでも行われていたのではないか。
BOOWY最後のライブは、東京ドーム(BIG EGG)にて、1988年4月5日18:30開演。
2019年6月に販売された『LAST GIGS -1988.04.05-』の収録時間数は1時間43分。開演時間が押したり、アンコール待ちの時間などの要素を考えると、終演は20時半過ぎ、下手をすると21時近くになるか…?
東京ドームのある後楽園から新宿までの移動時間や着替えの時間を考えると、その日に種ともこ氏のライブが入っていたとしても、到着するまでにはそちらも終了しているだろう。まして種氏のライブは4月5日・6日の2DAYS。初日である5日に撤収作業などは行われない。
種氏のライブのイベンターもBOOWYのLAST GIGSと同じディスクガレージだ。

その後、BOOWYのマネージャーであった土屋氏が音楽ライター「紺待人」名義で音楽雑誌に連載していた「氷室京介。彼を探して~STORY OF HIMURO」(BOOWYからソロへの氷室氏の軌跡を紹介する記事)においても、LAST GIGS後にパワステで打ち上げが行われたと思しき描写を見つけた。

そして"LAST GIGS”が約束どおり行われ、そこで彼はこう語る。
「伝説になんかならないぜ。必ずココに帰ってくるからな!!」
涙のひとつも見せずに、最終公演、そしてシーンの頂点に立ったバンドの歴史の幕を下ろす
-彼の自分自身への回帰の旅は、そこから始まる。
その日の夜、後に5年ぶりのライブハウス・コンサートを実現することになる新宿のパワーステーションに、彼のスタッフ集まっていた
すべての人たちと言葉を交わしながら、彼はスタッフたちに胸の中でこころから「アリガトウ」をくり返していた。(※8)

LAST GIGSを終えた後に、少なくとも氷室氏とスタッフはパワステに行ったということになろう。

LAST GIGS は、BOOWY最後のライブ。1224の時に集まったファンの混乱を考えると、出待ちやら何やらに囲まれる前に、ライブが終わったらメンバーは即出したと推測される。そんな彼らに同行できるのは、メンバーとの関係が極めて強い幹部スタッフ数人のみ。それこそ後年BOOWYのイベントのゲストとして呼ばれるようなスタッフだけ。そんな僅かなスタッフと一緒にメンバーが向かったのが赤坂プリンスホテルのスイートルーム。そこで着替えたりして、メンバーと関係者数人で軽く打ち上げたのが、BOOWYのファンミーティングで語られた「打ち上げ」なのではないか、と私は思う。

しかし、BOOWYの関係者は他にも沢山いる。大部分のBOOWYスタッフは観客の退場や撤収作業の対応等々で、ライブが終わったといえどもすぐには会場を出られない。そんなスタッフ達の最低限の仕事が終わるのを待って、またBOOWY最後のライブということで、BOOWYにある程度関わった関係者一同をも呼んでパワステで開催されたのが"布袋氏と松井氏が来なかった”「打ち上げ」ではないか。

ライブが終わったばかりのメンバーのための打ち上げが赤プリ、ライブに関わったスタッフも含めた打ち上げがパワステだったと思うのだ。そうして、そのどちらにも参加できずに翌朝まで東京ドームで撤収作業に従事していた現場スタッフの方々へ、パワステでの打ち上げを終えた氷室氏がお礼を言いに行ったのではないか。

とはいえ、もし本当にパワステでもLAST GIGSの打ち上げが行われていたとして、このパワステの打ち上げに布袋氏と松井氏が本当に来ていなかったのかは検証のしようがないのだが(苦笑)。
なんせ2人が来なかったとするソースがネットに漂う出所不明の噂なので。
言い出しっぺの証言者が誰がわかれば話は別だが…。
4人とも参加していたのであれば、その後みんなで移動して~くらいの話は漏れ出てきてもおかしくない。そのため、こちらには2人が参加しなかったのではないかな~と個人的には思う。しかし、話が一般人にまで聞こえてこないからといって、それだけでは事実がない証拠とはなり得ないので。

確実なのは、
赤坂プリンスホテルでの少人数での打ち上げには4人とも参加したということ。
②スタッフの証言や写真が残っている氷室氏は赤プリとパワステのどちらにも参加したということ。
この2つだけ、かな。


【出典・参考資料】

※1 「記憶」(松井常松 著)P15
※2 スポーツ報知 2016年7月2日
※3 「秘密」(布袋寅泰 著)P154
※4 JUNON 1989年11月号 P48
※5 「BOOWY 1224 Film」フィルムコンサートパンフレット P19
※6 Real Soundコラム「BOOWY話題作『LAST GIGS』が持つ歴史的価値」(2019.06.19 18:00)
※7 「1000DAYS OF ROCK’N ROLL パワステ・ブック」P44~45
※8 PATiPATi 1996年4月号 P99
※9  ROCK’N’ROLL 1988年7月号 P95
※10 What's IN 2001年11月号 p109


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