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BOOWYにまつわる噂のエトセトラ Vol.18-① ~ 解散後の交流③~

元BOOWYのベーシスト、松井常松氏は氷室氏と同級生である。
高校時代に氷室氏と一緒にバンドを組み、その後、ヤマハ主催のアマチュアバンドコンテスト”EastWest”に出場。
音楽事務所ビーイングにスカウトされ共に上京するが、実力不足を理由に解散。(但し、松井氏は自伝で「そんな言われ方はしていない」と否定している(※1 P44))
二人は別々のバンドに入れられてそれぞれ活動することになったが、氷室氏が新たなバンドを作るにあたって再び松井氏に声をかけ、BOOWYが結成された。というのが公式的見解
氷室氏とは、BOOWYの元メンバーの中で最も古い付き合いだった人である。

だが松井氏は、BOOWY解散時には布袋氏とともにユイ音楽工房から独立して、元BOOWYのプロデューサーが設立した事務所へ移籍していった。
松井氏は、BOOWYが解散する前から布袋氏に請われ、布袋氏の妻であった山下久美子氏の仕事を手伝っていたが、解散後も御自分のソロ活動とともに、山下氏や布袋氏のライブのサポートをしたり、布袋氏のアルバムにゲスト参加したりもしていた。

一方で氷室氏とは解散後もプライベートでの付き合いは(少なくとも90年代半ばまでは)続き、一緒に釣りに行ったり、氷室氏のライブを観に行ったりしていた。氷室氏も松井氏もプライベートをあちらこちらで吹聴する人種ではないので、松井氏の自伝や高橋氏の証言、音楽雑誌のライブレポにひっそりと残っている程度であるではあるが。

よって、私が持っている資料の中でも、松井氏と氷室氏の解散後の付き合いを裏づけるようなものはそれほど多くはない
例えば、当時の音楽雑誌等において、松井氏が氷室氏のライブに観に行ったことが確認できるのは、「OVER SOUL MATRIX TOUR 1991」有明スタジアム公演(1991年8月)(※2)から、氷室氏が渡米する前の「SHAKE THE FAKE TOUR 1994」大阪公演(1994年11月1日) (※3)まで。
渡米以降は、「東日本大震災復興支援チャリティライブ『KYOSUKE HIMURO GIG at TOKYO DOME "We Are Down But Never Give Up!!"』初日公演(2011年6月11日) 」と「KYOSUKE HIMURO LAST GIGS」東京2日目公演(2016年5月22日) に行ったことがわかるくらいだ。(但しこの二つのライブでは、氷室氏の楽屋へ松井氏が面会に訪れたりなどはしていない模様。)

逆に氷室氏が観に行った松井氏のライブは、1993年12月24日に行われた渋谷公会堂公演(TSUNEMATU MATSUI TOUR '93 Delirious moon.)くらいしか私は知らない。この逸話も御二人が漏らしたのではなく、94年に音楽雑誌で高橋氏が「松井の渋公の上のほうからヒムロックと一緒に見てたんだけど」と語っていたものである。(※4)
解散宣言のあの日から6年目の同月同日の同ステージに今度は松井氏が一人で立ち、その姿を高橋氏と氷室氏が見守っていたかと思うとなかなか感慨深い。
なお、揃わなかったもう一人の布袋氏は、この3週間ほど前に当時の妻の山下氏を殴り損ねて右小指中手骨を骨折したことで、自身のツアーを中断し、療養を余儀なくされていた。

このように明らかになっている具体的な交流エピソードは決して多くはないものの、氷室氏と一時期頻繁に遊んでいるときがあったと松井氏が自伝に書いていたり(※1 P141-144)、氷室氏や松井氏らと一緒に釣りに行ったと高橋氏らが証言していたり、氷室氏のFC会報誌(友人たちが氷室氏へ宛てた手紙を紹介する企画)で、松井氏が氷室氏から借りたLDを近いうちに返しに行くと書いていたり(※5)と、解散後もプライベートでは付き合いが続いていたことは間違いない。少なくとも90年代半ば頃までは。

なお、氷室氏のLAST GIGSから少し経って、松井氏がパーソナリティを務める群馬のラジオ番組で突然「氷室くんリクエストです」と言って何曲かかけたことはあった。しかしながら翌週の番組で松井氏は、リスナーから殺到した「氷室氏といつ会ったのか」「その時何を話したのか」「2人は連絡を取り合っているのか」などの問い合わせメールを紹介するも、「えー(笑)そんなの教えるわけないじゃん(笑)」と、いつどんな経緯で氷室氏からリクエストがあったのかは明らかにしなかった。(氷室氏ネタでファンの関心を引きつけ、さらに翌週もわざわざ反響を紹介して引っ張っておきながら、肝心なところは「教えるわけない(笑)」とするのは、正直どうかと思っている。不用意なことは言えないということなのかもしれないが、ならはじめから話題に出さないか、淡々とリクエストがあったことのみを告げるだけでいいのにと、どうしても感じてしまうので。)

そんな風にあまり表に出てこない2人の付き合いではあるが、一つだけ誰の目にも明らかな交流がある。
それが、氷室氏のアルバム「SHAKE THE FAKE」へ松井氏がゲスト参加したことである。

その「SHAKE THE FAKE」にまつわるあれこれについては、ちょ~っと長くなりそうなのと、これまでの解散後の交流ネタとは少々毛色が異なる私見が主となりそうなので、一旦ここでページを区切らせていただきたい。
個人的には、解散後に一時期復活した氷室氏と布袋氏の交流が断絶するに至った遠因の一つが、このアルバムの完成間近に発せられた布袋氏の言葉(に象徴される布袋氏のBOOWYや氷室氏に対するスタンス等)にあったのではないか?と考えている。(あくまでも私が思うに、というだけだが。)
勿論、当事者にしかわからないことは沢山あっただろうし、他にも氷室氏のレコード会社移籍や海外移住など、様々な要因が重なり合った結果でもあるだろう。また、布袋氏の発言に対しても色々な捉え方はあるだろうけれども。
そんな話を次回(多分)にできれば。
なお、氷室氏が松井氏をアルバム・ゲストに呼んだ関連話のくせに、松井氏は空気になる見込みです……。

【出典・参考資料】

※1 記憶/松井常松著
※2 月刊カドカワ 1991年11月号 P381
※3 ROCK'N ROLL NEWSMAKER 1995年1月号 P15
※4 PATi PATi ROCK'N' ROLL  1994年11月号 P29
※5 KING SWING 1992 SPRING №14 P73 LETTER№5 松井常松

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