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BOOWYにまつわる噂のエトセトラ Vol.16-① ~ 解散後の交流① ~

昨年の秋頃だったろうか。「解散後に京都で行われた氷室氏のライブ布袋氏観に行った」という趣旨のツイートを見かけ、疑問を覚えた。
あれ?布袋氏が観た氷室氏のライブが行われたのは大阪だよね?反対に、氷室氏が観たのが京都で行われた布袋氏のライブでは?と。
だが、どこからどう見ても熱心な布袋氏の信者であろうツイ主が自信満々に言い切っていたので、何か根拠があるのかちょっと検索してみた。

どうやら布袋氏が京都で行った直近のライブでそのような趣旨の発言をしたらしい。

まぁ仮にも当事者だし、ファンが知らない交流があったのかもしれないとは思いつつも、何せ布袋氏だからなぁ……。
近年では、氷室氏といついつどうしたとか何してやったとかは訊かれても訊かれなくてもあちこちで吹聴する布袋氏が、今になって新たな氷室氏との交流エピソードを出してくるとは思えない
なので布袋氏は、京都で行われた布袋氏のライブを氷室氏が観に行ったエピソードと混同していたのではないか、と疑った。

解散後のメンバーの交流、特に氷室氏と他のメンバーの交流については、多くのファンが関心を持つところのようで、SNSで、トークイベントで、或いはラジオなどで、メンバーに「解散してから会ったことはあるか」「最後にいつ会ったのか」と直接問いかけるファンを何度も目(耳)にしたことがある。だが、返ってくる答えはファンなら大体知っているようなものばかり。

BOOWYの4人が、解散後全員顔を揃えたのは関係者の結婚式のみとまことしやかに囁かれている。
だが、その「関係者」について、高橋氏は自伝(2007年刊)では「カメラマンの加藤正憲さんの結婚式」と書いているが(※1 P167)、1994年に音楽雑誌に掲載された松井氏との対談(※2)では「レコード会社の人の結婚パーティー」と言っていたりと微妙に異なる。昔のことなので、記憶のすり替えが起きてしまっているのかもしれない。或いは、当時は個人名を出すのが憚られる事情か何かがあったため、濁していたとか。

なお、メンバー中2人で、又は3人で集まっていたことはそれなりにあるようだ。氷室氏が渡米する前くらいまでは、布袋氏以外の3人で釣りに行ったり、氷室氏のライブを観に行って一緒に打ち上げに参加したりと、プライベートでは布袋氏を除いた3人の交流エピソードが幾つか伝わっている。
逆に仕事絡みだと氷室氏を除く3人で一緒に楽曲制作・ライブ出演をしたこともある。だが、こと氷室氏と布袋氏の解散後の交流エピソードということであれば、何かしらの根拠があるとされているものは、解散後の約35年間で以下の3つくらいだろうか。

(1)布袋氏が氷室氏のライブを観に行った
(2)布袋氏が氷室氏の自宅へ遊びに行った
(3)氷室氏が布袋氏のライブを観に行った

これらのエピソードは、いつあったものなのか

ネット上のファンの話はそれぞれ微妙に異なっていたり、あやふやだったりで埒があかなかったので、昔ちょっと調べてみたことがある。

【布袋氏が氷室氏のライブを観に行ったという噂】

まず(1)「布袋氏が氷室氏のライブを観に行った」だが、これについては、当時、布袋氏自身があちこちで吹聴していたようだ。
複数の音楽雑誌のインタビューや新聞記事などにおいて、そのエピソードを語る布袋氏の姿が散見される。また、真偽は確認できないものの、当時のライブのMCで語っていたと証言するファンもいる。
残されたインタビューの幾つかを抜粋してみよう。

あのコンサートの前に大阪にヒムロックのライブを見に行ったの。その時に会って話してね ”今度BOOWYの曲やるんだよ” "何やるの!?”“「DREAMIN」と「SUPER-CALIFRAGILISTIC- EXPIARI-DOCIOUS」と「BEAT SWEAT」” って。そしたら、“うん、なるほどね。布袋が選びそうな曲だよね”って言ってたけどね。(※3)

- なるほど。話は違いますけど、昔一緒にやってた人から感想は聞きました?
「こないだヒムロックに会いにいった話はしたっけ?ヒムロックに会ったら、聴いたよって。どうだったって訊いたら”なげえよ“って(笑)」
「いいけど長いよ、みたいな。いいじゃん、長いの作りたかったんだから、俺ぐらいしかできないよ、とか何とか言いましたけどね。久美ちゃんは圧倒的に認めてくれてるね。花田(裕之)くんも認めてくれてるし。マッちゃん(松井常松)とか昔の友達は、俺のこと良く知ってるからさ、こう行くのよくわかるっていうか、やっとこういう面も出したんだねってところで認めてくれてるし。吉川は会ってないから、聞いてないけど」
- ヒムロックはどうしてそういうふうに言ったんだと思いますか。
「あの人は単刀直入な人だから、思った通り言ったんじゃないかな(笑)。ただ、長かったって(笑)」(※4 P23)

- こないだのライブではBOOWYの曲やってましたね。
「うん。ヒムロックの中ではわかんないけど、俺はいい感じであのころのことを振り返れるし、だからこそ、やったんだよね、ヒムロックと会ったときに、BOOWYの曲、富士急でやるんだよって言ったら、見に行きてえなって。なにやんのって訊くから、「カリフラジェリスティック」と「ドリーミン」と「ビート・スイート」かなとか言ったら、布袋らしい選曲だねって。解散してすぐ、彼がBOOWYの曲をやったときはさ、グット来ちゃって精神的なものばっかがうごめいちゃったけど、いまは断片としてお互いやってきたことを捉えられるから」(※4 P24)

布袋氏は、1991年8月6日に開催された富士急ハイランドでのライブ(「GUITARHYTHM REPRISE」)の前に氷室氏に会いに行ったと語っていた。
会いに行った場所は、氷室氏の大阪で行われたライブ。
すなわち、7月に行われた氷室氏の「OVER SOUL MATRIX TOUR 1991」大阪公演(1991年7月15日・16日のいずれか)

この時布袋氏は、自身の富士急ハイランドでのライブでBOOWY楽曲を演奏するつもりであること、さらに演奏予定の曲名を氷室氏に告げ、氷室氏からは「布袋らしい選曲」だと言われたと話している。
それはいい。
問題は、「こないだヒムロックに会いにいった」時に、「GUITARHYTHM Ⅱ」の感想を聞いたというくだり。

「GUITARHYTHM Ⅱ」のCDは、1991年9月27日発売。LPは、その約1ヵ月前の1991年8月30日発売
布袋氏が観に行ったとされる氷室氏のライブは、1991年7月中旬に開催されている。

あれ?!布袋氏が氷室氏に会いに行ったのは、CD発売の2か月半も前(LPでも1か月半前)なの?
ならば氷室氏はいつ布袋氏のアルバムを聴いたのだろう?

布袋氏はこの頃、多くの媒体で氷室氏と会って話したことを語っているが、それらは全て1991年9月~10月頃に集中している。前述の音楽雑誌はどちらもその頃に発売されたものだし、新聞記事も1991年10月14日付のもの。(※5)
それは布袋氏が9月末にCDを発売し、9月30日から始まった全国ツアーのプロモーションのため、インタビューを精力的に受けていたことも一因としてあるのだろう。

布袋氏は「ヒムロックとは解散後ずっと会っていなかった」と話していた。解散後、氷室氏に会いに行って話をしたと明言したのはこの時がはじめて。
それ以前の氷室氏関連のエピソード(文献等で確認できるものに限る)は、1991年1月21日のエピソード――著書で氷室氏のレコーディング帰りであったBOOWY時代のマネージャー(氷室氏のマネージャー)とバーで偶然出くわして、氷室氏に二人目の子供が生まれたことを教えられた話くらいだろう。(※6 P76-77)
このエピソードは、布袋氏が氷室氏に子供が生まれたことすら知らない(知らされていない)程度には、当時疎遠であったことを示している。

関係者の結婚式で4人が顔を合わせたエピソードや横浜中華街で氷室氏に偶然出くわしたという噂もあるが、2人が能動的に会おうとしたわけではなく、交流があった証拠にもなかった証拠にもなり得ないことから、ここではひとまず除外する。

さらに、「GUITARHYTHM Ⅱ」のレコーディング中に布袋氏に送られた「最近、吉川くん、氷室くん、といった昔のバンド仲間のレコードが出ましたが、彼らの活動には注目していますか。音を聴いていたら感想を教えて下さい」という問いに対して、「もし注目という言葉に執着するならば、答えは”NO”です。ヒムロックのアルバム、期待しています。後藤さんのベースも聴いてみたい。音は聴いてないので感想はのべる事はできません。」と返答し(※7)、2人の音楽活動は眼中にないとアピールしている。

氷室氏のアルバムを期待していると言葉にしつつも、歌や曲については一切触れないうえに、吉川氏のアルバムも聴いてみたいのは「後藤氏のベース」だと言うあたり、布袋氏の性格がよく出ている。というか氷室氏や吉川氏への布袋氏の妙な対抗心、ヴォーカル・コンプレックスが透けて見える。(笑)

一方で氷室氏は、1991年4月6日 にアルバム「Higher Self」を発売。
1月21日に氷室氏のマネージャーが布袋氏と偶然会ったのは、恐らくこのアルバムのレコーディング帰りのことであったのだろう。実際、氷室氏のFC会報誌に掲載されていた91年の氷室氏の活動記録では、「1月13日~25日 セディック・スタジオ、ベイブリッジスタジオにてミックスダウンを行なう。」とあり(※8 P54)、布袋氏の話と一致している。

このアルバム発売を受けてのツアー「OVER SOUL MATRIX TOUR 1991」は、1991年5月9日から8月31日まで行われた。

なお、このツアーの最後は有明コロシアム4daysであったが、高橋氏は、「ヒムロックの有明コロシアムのコンサートに行って来ました。最後のたたみ込みは、さすがの迫力があり、思わずググッとのめり込んでしまいました。そこで、久し振りに、松井常松に逢いましたよ。」と雑誌のコラムに寄稿し(※9 P381)、高橋氏松井氏揃って氷室氏のライブ(他誌に掲載されたインタビュー等なども合わせて総合的に判断すると、恐らく最終日)を鑑賞したことを明らかにしている。(どうせ行くなら布袋氏もこの日に行けば良かったのに……。スケジュールの都合等もあるので仕方のないことなのかもしれませんが。)

元メンバーが観に行ったこのツアーであるが、伝え聞く氷室氏のライブへ向かう姿勢や音楽への取り組み方などから想像するに、約4ヶ月間で39都市45公演というハードなツアーの最中に、布袋氏のアルバムをのんびりじっくり鑑賞するかというと……しないのではないかなあと思うわけで。
BOOWYの元メンバー高橋氏も「レコーディングやツアー中は尋常ではなくモチベーションを高めて臨む男だった」と氷室氏を評していた。(※1 P183)ならば、聴くとしてもツアー終了後ではないか。
それ以前に、布袋氏が観に行ったとされる氷室氏のライブが開催された時点では、布袋氏のアルバムはまだ発売されていない
発売の2か月半も前(LPでも1か月半前)に、いくら当時は同じレコード会社だとはいえ、氷室氏が布袋氏のアルバムを入手できたとは思えない。仮に可能であったとしても、その頃氷室氏は、北は北海道から南は九州まで全国各地を回っていて、わざわざツアー先まで布袋氏のアルバムを取り寄せたりはしないだろう。

「GUITARHYTHM Ⅱ」のレコーディングは6月中旬頃に終わった(※10)とのことではあるが、同年の1月下旬時点では氷室氏の近況すら知らず、レコーディング時点でも氷室氏の作品は眼中なしという態度を見せていた布袋氏が、レコーディングを終えたばかりの自身の作品を勝手に氷室氏へ送りつけるとは考えにくい。
氷室氏に感想を聞いたと語るインタビューでも、「聴かせたいってほど強いもんではないよ。聴いてくれたら嬉しいけど、感想を聞きたいっていうわけではないしさ。」とも語っている。(※4 P23)
この布袋氏の言葉を信じるのであれば、やはり「一刻も早く俺の作品を聴け!」とばかりに氷室氏に送りつけることはないと思われる。

ということは、だ。
布袋氏が自身の富士急ハイランドでのライブ(1991年8月6日)の前に、京都で行われた氷室氏のライブを観に行ったというのは、当時布袋氏が各所で話していた内容がほぼ一致しているので、恐らく本当であろう。
しかし、氷室氏に会いに行った時に「GUITARHYTHM Ⅱ」の感想を聞いたというのは、

①布袋氏の
②氷室氏の京都ライブ以外の時に会って感想を聞いた

のどちらかではないか。

①については……正直、現在の布袋氏ならそのくらいやりかねないと思う。だが、自身に対して超ポジティブ・シンキングで常に自分に最も都合の良いように解釈するのは昔からとはいえ、少なくともこの頃であれば、ありもしないエピソードを捏造するとは流石に考えにくい。(1を100のように言ったりして印象操作はするかもしれないけれど。)
それに嘘をつくのなら氷室氏の感想を”なげえよ“とするのではなく、大絶賛されたかのように偽装してくるだろう。

となると、同一誌のインタビュー内で話していたことではあるが、「布袋氏が氷室氏のライブを観に行き、『BOOWYの曲、富士急でやるんだよ』と言った時」と、「『GUITARHYTHM Ⅱ』の感想を聞いた、こないだヒムロックに会いにいった時」は、全く別の「」ではないか、と私は考えた。

だが、布袋氏が氷室氏のライブを観に行ったのは7月中旬。
富士急でBOOWYの曲をやると氷室氏に告げ、且つ、「GUITARHYTHM Ⅱ」についての氷室氏の感想を聞いたと語ったインタビューが掲載された媒体は、私の知る限り9月末から10月中に発売されたものばかり。
逆算すると、これらのインタビューが敢行されたのは8月~9月頃ではないか。氷室氏のツアーは8月末まで。ツアーが終わるまで、布袋氏のアルバムを鑑賞する余裕は、恐らく氷室氏にはない。(と思う。)
ツアー終了後の氷室氏は10月10日に渡米し、その後約2ヵ月に渡って世界各国を旅している。(※8 P64)

布袋氏のアルバム「GUITARHYTHM Ⅱ」は1991年9月27日発売で、ツアー「GUITARHYTHM ACTIVE FLY INTO YOUR DREAM」も9月30日に始まってしまう。

仮に2人がもう一度会ったとして、それは一体いつなのか?

可能性があると考えられるのは9月の僅かな期間だけだが、果たして布袋氏のインタビューが行われる前に、氷室氏が布袋氏のアルバムを聴くことが可能なのだろうか?
かといって、この時に限って言えば、布袋氏が嘘をついたとも考えにくい。

うん。わからない

考えてもわからない場合は、心の中の疑問コーナーの引き出しに仕舞って暫く放置。その後何か参考になるものが見つかったり思い出したりしたら、その疑問を引っ張り出してあらためて考える、というのが私のいつものやり方。

この時もそうして、そのまま暫く放置していた。
そうして近頃書いている解散ネタシリーズに関する資料を再読している際に、先月書いた「氷室氏が布袋氏にバンド結成のお誘いの電話を掛けてきた日」に関する布袋氏のインタビュー記事を見つけたのだ。

そこについでのようにさらっと書いてあったのがこれ。

昨日も解散して初めて氷室の家に遊びに行った。二人で振り返りまくって、「気持ちいいね」(笑)。それだけニュートラルな感じに戻ってるんだろうね。群馬にいるときライバルだったけど、BOOWYやったらもっとライバルになっちゃった。それはそれでお互い息苦しかったから、俺だけかもしれないけど、かといって仲間意識はないわけじゃない。でも俺のほうがあいつよりカッコいいと思ってたし。それは置き換えると、歌よりギターのほうがカッコいいと思ってたから。最初にマーク・ボランのギターを見たときからずっとね。今は完璧にお互いの道が分かれてるから楽なんだろうね。ちょうど昨日マッちゃん(松井常松)の誕生日だったから氷室の家から電話で「おめでとう」って言って(笑)。すごく妙だったけど、すごく幸せな感じだった。氷室が電話してきたのも十二月で、BOOWYが解散発表したのも十二月で、なんか冬に生きてきたような感じがする。(※9 P275)

昨日、解散して初めて氷室氏の家に遊びに行った、だと!?
しかも「昨日」は、松井氏の誕生日だった、だと!?

そこではたと思い出した。

昔、松井氏と高橋氏の対談で、松井氏が「解散後に自分以外のメンバー3人で会ったことがある」と話していたことを。

本棚から当時の雑誌を引っ張り出し、探し出した記事がこれ。

解散後、6年が経っている。
松井「あれから、4人で会ったことは一度もないんじゃない?」
高橋「いや、一度だけあるよ。レコード会社の人の結婚パーティーの時。あの時はいきなり俺らだけ別室に通されて、何だか変なかんじだった。まだ、解散した直後くらいだったから、変に緊張したのを覚えてる」
松井「僕以外の3人が集まってたこともあったよね。僕、あの日は自分の誕生日で予定が入ってたから、行けなかったけど。別に会わないって決めてるわけじゃないから、いろんな組み合わせで会うことはあるよね」
高橋「俺と松井で、朝まで盛り上がったこともあったじゃん。経堂でさ」
松井「ラジオの録りの後。まだ、マコッチャンがソロやるなんて話も全くなかった頃だよね」(※2 P29)

これは1994年6月頃に出た雑誌の記事。
松井氏は1960年9月8日生まれ。

すなわち、布袋氏が解散後はじめて氷室氏と会ったのが1991年7月中旬とするのなら、松井氏以外の3人で会ったのは、1991年1992年1993年のいずれかの9月8日となる。

解散後、1991年7月中旬まで氷室氏と布袋氏が会った(会おうとした)ことがないのであれば、1991年10月頃に出た音楽雑誌で布袋氏が語った「松井氏の誕生日に、解散して初めて布袋氏が氷室の家に遊びに行った」日は、必然的に1991年9月8日
但し、この時布袋氏は「二人で振り返りまくって」と言うなど、氷室氏と布袋氏以外の存在は一切匂わせていない。
では、松井氏が語った「僕の誕生日に僕以外の3人で会った日」とは別の日なのか?

前述の氷室氏の活動記録では、1991年の「9月2日~7日」は、ライブビデオのトラックダウン、「9月13日~19日」にビデオの編集を行ったことになっており (※8 P64)、9月8日のスケジュールは空白。勿論、だからといって仕事が一切入っていない証拠にはならないけれど、大きな仕事は入ってなかったろう。
であれば、1991年9月8日に元メンバーを自宅に招いていたとしても不思議ではない。

1992年の9月に布袋氏は、「GUITARHYTHM Ⅲ」を発売している。同アルバム発売を受けてのツアー「GUITARHYTHM WILD TOUR」は、1992年10月12日から始まり、途中、山下氏を殴り損ねて骨折したことによる中断を挟んで、翌1993年4月9日に終了している。この頃、布袋氏はアルバムとツアーのプロモーションで数多くの取材を受けているが、氷室氏と会ったエピソードを語っていない。「GUITARHYTHM Ⅱ」で氷室氏の感想を聞いたと話していたのだから、もしこの頃会っていたのなら、同じように「GUITARHYTHM Ⅲ」を渡して感想を聞いたと思うのだ。だが、1992年当時のインタビューに限らず、布袋氏が氷室氏やBOOWY時代の想い出話を積極的に自身のプロモーションに利用するようになってからも、そんな話はしていない。

また、氷室氏も1992年の9月頃は、1993年1月7日発売のアルバム「Memories Of Blue」のレコーディング中。このアルバムのレコーディングは4月下旬からスタートし、ミックス・ダウンは11月にニューヨークで終わったとのことである(※11)。東芝EMIが当時発行していたフリーペーパー「him」によると、松井氏の誕生日である9月8日は、「KISS ME」の再ミキシングを行っていたとのこと(※22)。翌日からはアルバムのヴォーカル入れも始まっており、まさにレコーディングも大詰めを迎え、忙しくてそれどころではない頃ではないか。

となると、1992年の松井氏の誕生日に3人が集まったとは考えにくい

1993年は、布袋氏が7月頃渡英し、そのまま1年弱ロンドンに滞在しているので、松井氏を除いた3人が会う以前に、そもそも布袋氏が日本にいない

ちなみに、高橋氏は氷室氏のライブをよく観に行く。さらに、行った際に松井氏と会ったエピソードを語ることも多い。1993年5月に行われた氷室氏のライブでも、松井氏と会って一緒にロフトでの打ち上げに参加したエピソードを披露しており、布袋氏を除いた3人で、プライベートでは会っていたようだ。(※12)
BOOWY後に参加したバンドが解散して放心状態だった高橋氏を、氷室氏が釣りに誘ったり、氷室氏のファンクラブのスキーツアーに招待したりしていたのも、丁度このくらいの時期。この時期の氷室氏の心遣いに救われた話を、高橋氏は色々なところで紹介し、氷室氏に対する感謝の言葉を述べている。(※1 P182-184)

高橋氏は、1994年に初のソロアルバムを発売した際、それまでの活動の軌跡を振り返ったインタビューを幾つも受けていた。その中でBOOWYの元メンバー同士の交流についても触れているが、1993年頃のプライベートなエピソードの中に氷室氏と松井氏の名前は出てくるものの、布袋氏の名前は出てこない。(あくまでも私の持っている資料の中での話にはなるが。)
となると、イギリスに長期滞在中の布袋氏がもし仮に途中帰国していたことがあったとしても、1993年頃に布袋氏も含めた3人で会っていた可能性は低い

ゆえに、松井氏が語った「自分の誕生日」に「僕以外の3人が集まってた」日というのは、布袋氏の語る「マッちゃん(松井常松)の誕生日」に布袋氏が「解散して初めて氷室の家に遊びに行った」日のことを指すのではないか。すなわち、1991年9月8日
布袋氏は、そこに高橋氏がいたことは全く触れてなかったけれども。

【布袋氏が氷室氏の自宅へ遊びに行ったという噂】

さて、1991年9月8日に氷室邸にBOOWYの元メンバー3人が集ったとして、この日が「(2)布袋氏が氷室氏の自宅へ遊びに行った」と噂されている日なのであろうか。

「布袋氏が氷室氏の自宅へ遊びに行った」という噂が発生した根拠は、氷室氏のFC会報に掲載された、布袋氏の当時の妻であった山下氏から送られたメッセージだと思われる。

Dear Mr.HIMUROCK!
元気ですか?
あっそう言えば、この間Hote君がお家にお伺いしたそうで、どうもありがとう!
(中略)
という訳で、今年は私も主婦業をちょっと休業して久し振りにハリキッテいます。Tourはもう終わっちゃったけど、すごく楽しかったし、声もよく出たし、気持ち良かったよ。観てほしかったな。Vocalistであるがゆえに思う気持ち?みたいなものが見えたような、そんな気がした日々でした。
(中略)
今度はぜひ、Hotei家に遊びに来て下さい。Juliaも紹介したいし、ノン・アルコール関係たくさん仕入れて待ってます。
(中略)
では、Good Luck & See You Soon ×××

Kumiko Yamashita ‘92(※13)

このメッセージが掲載されたのが1992年夏号で、「ツアーはもう終わった」と山下氏が語っていることなどから、このメッセージが書かれたのは、山下氏のツアー終了後の、恐らく1992年8月頃だろう。
1988年秋頃に布袋家に迎え入れられた飼い犬Juliaを紹介したいと書いていることから、解散後に氷室氏が布袋家を訪れたことがないことがわかる。

問題は、山下氏が証言した「この間Hote君がお家にお伺いした」時が、前述の布袋氏と高橋氏が氷室邸を訪れた時と同じかどうか
1991年の松井氏の誕生日から1年近く経過しているが、「この間」という山下氏の言葉をどう解釈したらよいか。

91年10月から約2ヶ月間は、氷室氏は日本にいない。
布袋氏も91年9月末から翌92年の1月中旬までツアーを行っている。
そして氷室氏は92年4月頃から次のアルバムのレコーデイングに入り、山下氏がメッセージを寄せた頃はまだレコーディングは終了していない。
スケジュール的には絶対無理だとは言えないし、レコーディング中であったとしても期間中毎日ずっとスタジオに籠もって歌い続けているわけではないだろうから、あり得なくはないけれども……。

もしも92年頃にも布袋氏が氷室氏の自宅に招かれたのであったのなら、前述の通り、あの性格の布袋氏がインタビュー等でそのことに一切触れていないのはいかにも不自然。これが氷室氏や松井氏なら話さなくても不思議ではないが、布袋氏の場合は氷室氏関連に限らず、自分にとってプラスとなる交流(付き合いがあることによって自分の価値を高めたり、自分の評価の裏付けとなるようなステータスシンボル的な人物との交流)は積極的に公開していくスタイルだし……。
また、「よい夢を、おやすみ。」で布袋氏が「1年以上前に氷室氏と解散後はじめて会って話したこと」を「ついこの間」と称していたと書かれていたので、1年程度であれば「この間」の範囲内と捉える人も珍しくないのかもしれない。

なので、私としては、山下氏の語る「Hote君がお家にお伺いした」時も「91年に布袋氏と高橋氏が氷室氏の自宅で会った日」ではないかと考える。
但し確証はない。個人的にはもう1回くらい往き来があってもおかしくないとは思うが、あるともないとも断言しかねるため、あくまでも布袋氏の性質を勘案した結果の消去法で。違っていたら申し訳ない。

そうしてこの日に、布袋氏は氷室氏から「GUITARHYTHM Ⅱ」の感想を聞いたのではなかろうか。
一つ気になるのは、「GUITARHYTHM Ⅱ」のCD発売が1991年9月27日発売であること。3人が会ったとされる9月8日よりも後だ。しかしながら、布袋氏が「氷室氏からアルバムの感想を聞いた」と語るインタビュー(※4)が掲載された雑誌の発売日は、CD発売日と同日である9月27日。つまり、そのインタビューが敢行された日自体がCD発売日よりも前であることは明らか。
よって、布袋氏の言葉が本当であるなら、氷室氏から感想を聞いた日はCD発売後であるわけがない

なので、8月30日発売のLPを氷室氏が入手していたか、或いは、布袋氏が氷室氏のライブから帰った後に氷室氏へサンプル盤を送ったか、或いは布袋氏が氷室氏のライブを観に行った際に新アルバムのサンプル盤を渡したのではないか、と推測している。

【氷室氏が布袋氏のライブを観に行ったという噂】

では、(3)氷室氏が布袋氏のライブを観に行ったのはいつか。

このエピソードは布袋氏の著書紹介されている。(正確に言うと、布袋氏の著書の中でこのエピソードを書いているのはいずれも森永浩志氏である。)

〔京都〕
11月14日
(中略)
楽屋には作詞家の森さん夫妻や高橋幸宏氏や、今日は大阪からフェラーリに乗ってヒムロックがくるという。氷室君、といっても僕は一面識もないが、彼ははじめて布袋君のステージを観にくるそうだ。
僕が驚いて、はじめて? というと、布袋君は「ええ、そうですよ。だって僕たち解散してからずっと会ってなかったし、ついこの間ですよ、会って話したのは」「へえ、そんなもんなの?」(※6 P282~283)

その日は作詞家の森夫妻、森さんの友人の高橋幸宏、さらに、氷室京介が大阪で買ったばかりのフェラーリを自分で運転し東京に運ぶ途中、BOOWY解散後はじめて布袋のステージを観に京都会館へやってきた。否応なく布袋のテンションはアップする。(※14)

森永氏が紹介した「氷室氏が解散後はじめて観に行った布袋氏のステージ」は、1992年11月14日に行われた「GUITARHYTHM WILD TOUR」 京都会館第1ホールでの公演。
余談だが、この公演に布袋氏の父親の代理人がやってきて、布袋氏の父が1か月前に亡くなったことを伝えていったそうである。最近のインタビューでは父親の命日すら知らないと言っていたけれど。

また氷室氏も、1993年1月9日発売の音楽雑誌のインタビューにおいて、「一昨日、布袋(寅泰)のライブを観て」と語っている(※15)。氷室氏のインタビューでは具体的な日付が書かれていないが、布袋氏の「GUITARHYTHM WILD TOUR」を氷室氏が観たというのは確かだろう。
発売時期から逆算して、布袋氏側が話す「京都会館第1ホール」の公演である可能性は高い

【結論】

従って私の結論としては、

(1)布袋氏が氷室氏のライブを観に行った日は、1991年7月15日 若しくは 16日
(2)布袋氏が氷室氏の自宅へ遊びに行った日は、1991年9月8日
但し、布袋氏だけ招かれたのではなく、高橋氏も一緒であった。
(3)氷室氏が布袋氏のライブを観に行った日は、1992年11月14日

である。

それ以外に2人が自分達の意思で会ったことがあるかどうかまではわからない。
あったかもしれないし、なかったかもしれないが、ある程度信憑性があると思われるエピソードはこれだけ。
仮にあったとしても、そう多くはないと思われる。
なお、冒頭の「解散後に京都で行われた氷室氏のライブを布袋氏が観に行った」というのは、やはり布袋氏が「京都で行われた布袋氏のライブを氷室氏が観に行った」ことや「大阪で行われた氷室氏のライブを布袋氏が観に行った」ことなどと混同していたのではないか。(証拠はないけど、布袋氏の性格等々を勘案した結果。)

氷室氏は元々あまり語らないし(インタビューを受ける時はアルバムやツアーのこと中心)、松井氏も高橋氏も、BOOWYの元メンバーとの交流話は基本的に自分と相手の話なので、そこに布袋氏が絡んでくる話でもなければ一々話題に出さない。
布袋氏は積極的に氷室氏やBOOWY時代の想い出話をするようになったが、近年の話題は皆無
最近の交流について問われても「しばらく会ってない」と答えている。

私が考えるに、氷室氏と布袋氏が最後に会ったのは恐らく1995年~1996年頃。(そう考える理由については、気が向いたら今度書くかも。でもそうすると解散ネタの続きを書くのが益々先送りになってしまう……。)

氷室氏は90年代半ばに渡米、布袋氏も2012年に渡英しており、生活の本拠地が物理的に離れている
どちらも仕事の場は日本中心だけど、基本的には仕事のために日本に帰ってきて、仕事が終われば戻ってしまう。(但し布袋氏の場合は、仕事があるのは悪いことではないのだろうけれど……大々的に渡英&移住をぶち上げた割には、93年~94年にかけてロンドンに長期滞在していた頃の方が今より年間ロンドン滞在日数は多いような気がしてならない……。)

今の音楽性についても、素人目から見ても明らかなくらい、かなり異なっている

性格はいわずもがな。

そういう意味では現在交流がないのも、それはそうだよね、と思う。
やはりBOOWYであったあの僅かな期間は、奇跡的な邂逅であったと。

かつて一緒にバンドを組んでいた。
解散後に交流があったのは、解散から数年後の僅かな期間のみ。
はもう何十年も交流がない
人生の中で様々な分岐点があって、その数々の選択の果て現在がある。
今交流がないのなら、それはこれまでの各人の色々な決断の果てにある結果なのだと思う。

ならばそれで良いのではないか。
お互いが会いたいと思えば会えばよいし、どちらか片方でも会いたいと思わなければ会わなくてよいと思う。誰かが強いることではない。

最近よく目にする再結成待望論的記事では、「布袋氏が氷室氏の実家放火事件の際にコメントを発したから」「布袋氏が氷室氏の還暦を祝うコメントを発したから」等々、布袋氏の一方的なアクション(それも本人に直接ではなく、ネットを介した不特定多数に向けた発言)を取り上げては、だから「2人の間に蟠りはないはず」「お互いにリスペクトしているはず」と結論づけるのが主流だが、片方の言葉だけでその結論を導き出すはかなり無理があるのではないか。
そうやって強引に出した結論をもって、「なので、氷室氏が声をかけさえすれば3人は再結成に応じるはず」「ファンの願いを叶えて欲しいものだ」と、隙あらば氷室氏に再結成圧力をかけようとするのは、本当にいかがなものかと思う。

そもそも彼らの間に何があったのか、それに対して彼らが何を思ったのかなんて、本人以外正確に知る者などいない。解散前も解散後も。
我々は当事者の言動や態度から彼らの心情類推することしかできないが、布袋氏はとにかく言ってることがコロコロ変わる。それまで「俺の意思でやったこと」「俺が望んだこと」と誇っていたことに批判的な目が向けられるや否や、「ヒムロックもそう思っていた」「ヒムロックも俺の行動を支持していた」と言い出すのもしばしば。逆に賞賛されるようなことや成功に繋がるようなことは、他人がやったことでもいつの間にか「俺がやったこと」として触れ回ることも多い。氷室氏やBOOWYに関する発言も一貫性がない

氷室氏は解散から90年代半ばくらいまでは、布袋氏の音楽活動に期待しているような発言や布袋氏の才を誉めるような発言、布袋氏を庇うような発言が多かった。前述の通り、91~92年頃は僅かながらもプライベートでの交流もあったことがわかっている。しかし90年代後半からは布袋氏に関する発言はほぼなく、布袋氏が氷室氏やBOOWYに対して何を言おうが黙殺。2000年のインタビューでは、ソロになったばかりの頃の心境を問われて、「恋愛で喩えるならば、好き勝手なこと言って俺とうまくいかなくなったバカな女のことをじくじく考えるようなタイプではないです。<とっとと勝手に生きろよ>と。」と応じるまでに至った。(※21)
このこと一つをとってみても、片方の発言の断片や一つの出来事だけを切り取って、2人の関係性について周囲が決めつけるのは危険であるとわかるだろう。(「自分はこう思う」ではなく、「絶対~のはず。それ以外の考えは許さないし認めない」という人が多い気がして懸念している。まぁ私もここに好き勝手に私見を書き散らかしてるわけだけれども。)

解散後、彼らの交流が一時期復活した後に「何か」があって会わないようになってしまったのか、ただ単純に機会がなくてそのまま会わなくなってしまったのか、当事者以外はわからないこと。
仮に「何か」があったとしても、それに対する捉え方は、例え当事者であったとしてもそれぞれ異なるだろう。
なのに、何も知らない外野が「このまま会わないでいて、それでいいのか!」と囃し立てるのは余計なお世話……というか、それを良くないと思っているのは外野であって、当事者ではないと思うのだ。

「もう一度4人が揃っているところを見たい」。ファンがそう願う気持ちは決して間違いではない。でも会わないことが悪ではないし、願いが叶えられないからと言ってファンがそれを恨むのはちょっと違わないか?と、私は思う。

こういうことを言うと、4人(又は氷室氏と布袋氏の2人)が集まる妄執に取り憑かれた方々が「じゃあオマエは4人集まる姿を見たくないのか!」「4人集まってもオマエは観に行かないんだな!」と発狂するのだけれども、そういう問題ではない。ということを、どうしてもわかってもらえない。まぁ、そのファンの妄執を利用して、定期的にファンを煽るようなことを口にするBOOWYの元メンバーもいるのでね……。
その辺りはお互い相容れないところなので、難しいなぁ。「好き」という気持ちは一緒でも、その気持ちの在り方は百人百様だから。

【余談】

1991年の夏、布袋氏はBOOWY解散後はじめて氷室氏のライブへ訪れた。どうして布袋氏が氷室氏に会いに行ったのか、布袋氏はその理由をはっきり語ってはいない。
解散から数年経ち、ソロ活動も軌道に乗り始めて、お互いに気持ちの整理がある程度ついたというのは勿論あるだろうが。

私が興味深く思うのは、お互いのライブを観に行ったのが1991年~1992年という時期であったこと。

ソロとなった布袋氏は、解散して早々に、吉川晃司氏とCOMPLEXを結成した。吉川氏は、自身のアルバム「GLAMOROUS JUMP」(1987年11月21日発売)制作時のエピソードとして、事務所を辞めたいと言っていた吉川氏に布袋氏が「俺もBOOWYやめるよ」と言ったので、じゃあ何か一緒にやろう、契約の関係で1年ぐらい活動できないからその後でやろうということにしたとCOMPLEX結成の経緯を語っていた。(※16)
同アルバムのタイトル曲が吉川氏と布袋氏の共作で、吉川氏が作詞した歌詞が「とどかない世界へ飛び出せ 夢のつづき 2人ならつかめるさ」であることが、その後の2人の行動を考えると、何とも意味深である。その頃に氷室氏が書いたBOOWYの「MEMORY」や「季節が君だけを変える」の歌詞と比較すると、その違いは明白。

また布袋氏も、BOOWYが解散するのとタイミングを同じくして、吉川氏がもう一歩何かスケールのでかいことをやっていきたいと言っていて、それで2人で話し合って一緒にやることを決めた。ただ、とりあえずその前に『GUITARHYTHM』みたいなものをミュージシャンとして1個立てておきたいという話して、吉川氏がじゃあそれは待とうってことで、『GUITARHYTHM』発売後にCOMPLEXを結成することになったと結成の経緯を明かしている。(※17)(但し、COMPLEX破綻後は、歌謡界でやりたいことをやれないと悩む吉川氏を助けてやりたかったから、BOOWY解散後にCOMPLEX結成を決めたという風に変わっている。)
そもそも布袋氏は、1985年12月時点で「好きなアーティスト」を訊かれて「吉川晃司」と回答するほど、BOOWY時代から吉川氏を評価していた。(※18)
これらのことを考えると、布袋氏はBOOWYのメンバーに自身の海外進出を盾に解散を迫ったものの、実際には解散した後は日本で吉川氏と一緒に活動することも、解散前から視野に入れていたと考えてよいだろう。(海外進出は解散のための方便だとまでは言わない。松井氏の自伝での言葉なども考慮に入れると、海外進出だけが理由でなく、他にも色々やりたいことがあったから解散を望み、そのやりたいことの中の一つに山下氏や吉川氏などのヴォーカリストと自由に組んでやることがあったと考えている。)

その吉川氏と組んだCOMPLEXは結成から僅か2年、1990年11月8日の東京ドーム公演をもって無期限の活動休止に入る。
COMPLEX活動休止の理由について述べると非常に長くなるのでここでは割愛するが、2人の言い分を聞く限り、お互いがお互いに求めた理想と現実は違ったのだろうな、と。

さらに、BOOWY時代に布袋氏が、氷室氏以外の全メンバーを引き連れてツアーに参加したいと願ったほど入れ込んでいた妻の山下久美子氏は、BOOWY解散から程なくして、1988年12月5日に「もう彼(布袋氏)にはかなわない」と考え、一旦休業に入っていた。その後、布袋氏の勧めにより1991年春に復帰したものの、「メンバーとして共に立つことはもう無理」「同じ傷つき方を、もうしたくなかった」という山下氏の意思により、ツアーメンバーとして布袋氏が呼ばれることはなく、その後もお互いのライブに何カ所かにゲスト出演する形にとどまった。(※19)

ステージ上で自分の隣で歌うヴォーカリストを、それもBOOWY時代から入れ込んでいたヴォーカリストを立て続けに失ったこの時期に、布袋氏は氷室氏に会いに行った。
そして、氷室氏との交流が再開して間もなく、BOOWY解散宣言から丁度4年後の1991年12月24日に、京都会館のライブ後に行われたクリスマス・パーティーにおいて、布袋氏は後に妻となる今井美樹氏と出会った。(※6 P108)今井氏は、そのパーティーで布袋氏が弾き語りをする姿を目の前で見て、近くにあったフランスパンで隣の人の頭をポコポコと叩き、さらには当時布袋氏の妻であった山下氏(初対面)のそばに行って「わー、久美子さん、ポコポコ」とやるほど大感激したと後に語っている。(※20)
今井氏は、翌年1月のツアーの打ち上げ旅行にも参加し、布袋氏が持参したCDをかけた途端「私が探していたのはまさにこの音だわ!やっと見つけた、私のやりたいこと!」といきなりはしゃぎだしたという。(※6 P121)
今井氏が布袋氏のライブの打ち上げ旅行にまで参加したのは、当時の布袋氏のバックバンドのドラマーの彼女であったから。そのドラマーが所属していたバンドは、元々山下氏や吉川氏のバックバンドを務めていた。(ついでに今井氏のも)
山下氏や吉川氏との縁がそのドラマーと布袋氏を結びつけ、そのドラマーの縁が布袋氏と今井氏を結びつけた。

山下氏との離婚や今井氏との再婚にまつわるあれこれについてはここでは触れないが、布袋氏が今井氏へはじめて楽曲を提供したアルバムが発売されたのは、1992年12月23日。氷室氏が布袋氏のライブを観に行った約1か月後。奇しくも、氷室氏が観に行ったのは京都会館。布袋氏が今井氏と運命の出会いを果たしたのと同じ京都。
さらに、氷室氏が布袋氏のライブを観に行った日(1992年11月14日)に、布袋氏は実父の死を知り、且つ、その日から丁度5年後の同月同日に、BOOWY時代にあれほどまでに肩入れしていた妻、山下氏と布袋氏は離婚した。

偶然だということはわかっているけれど、運命の綾を感じざるを得ない。
解散後2人に交流があった(会う意思があって会っている)と判明している期間というのは、布袋氏がBOOWY時代に夢中になっていたヴォーカリストを失い、次に夢中になるヴォーカリストに出会うまでの僅かな期間だったのだなぁ……と。
ちなみに、今井氏の彼氏であったドラマー氏は、布袋氏のライブの打ち上げにおける今井氏の「途中下車宣言」事件の翌年、布袋氏のサポートを外され(理由は不明)、今はまた山下氏のライブのサポートをしたりもしている。
世間は結構狭い模様。


【出典・参考資料】

※1 スネア/高橋まこと著
※2 PATi PATi ROCK’N ROLL 1994年7月号 P29
※3 宝島 1991年10月9日号 P154
※4 ROCK'N' ROLL  1991年11月号
※5 1991年10月14日付読売新聞 「元BOOWYのギタリスト布袋寅泰がソロで全国公演」
※6 よい夢を、おやすみ。/布袋寅泰・森永博志・ハービー山口 著
※7 Rockin’on JAPAN 1991年6月号 P59-60
※8 KING SWING 1992年WINTER №13 「LOOKING BACK TO ‘91」
※9 月刊カドカワ 1991年11月号
※10 What’s IN 1991年9月号 P75
※11 KING SWING 1992年AUTUMN №16 P14
※12 音楽と人 1994年8月号 P39
※13 KING SWING 1992 SUMMER №15 P43
※14 六弦の騎士/布袋寅泰・森永博志著 P203
※15 PATiPATi 1993年2月号 P12
※16 月刊カドカワ1993年3月号 P9
※17 Rockin’ on JAPAN 1989年4月号 P9
※18 宝島 1986年2月号 P117「日本のロックデータファイル」
※19 ある愛の詩/山下久美子著 P140-144
※20 PATiPATi 1994年10月号 P112
※21 音楽と人 2000年5月号 P76
※22 him №4 1992年11月7日発行

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