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BOOWYゆかりの(跡)地を訪ねてみた。【高崎市街編〔前編〕】


【ボウイメモラビリア展】

「拝啓ボウイ様」に「じぐろ京介 with SPECIAL MEMBERS」が今年もご出演なされると聞きつけ、再び高崎まで足を運ぶことを決断したのは、出演者発表があった10月下旬のこと。

昨年に引き続き「ボウイメモラビリア展」も同時開催されると知り、「よし、昨年の反省も踏まえて今年は予習してから行こう!」と決意。したものの、何が出展されるかわからない状態では予習もへったくれもない、ということに気づいたのはそのすぐあと。
せめて撮影OKなら、展示品をとりあえず撮ってき、後々何か調べ物をするときの資料の一つとして活用できるのだけれども、残念ながら撮影NG。(一部撮影許可スポットあり)
撮影可にして、展示に協力されたコレクター(なんとBOOWY好きが高じて大阪から高崎へ移住されたとのこと!)がお金と時間を掛けて集めた宝物の山々の写真をネットにあげ、あたかも自力で調査or発見or収集したものであるかのように振る舞う人(BOOWY界隈に限らず結構いる)が出てくるのもあれだしなぁ。仕方がない。
そういう私も他人が苦労して収集したもので調べ物をしようとするな!と怒られそう(笑)。
そんなわけで、昨年同様ノープランで行って参りました。
でも予習なしでも十分楽しめました。「TAKASAKI ROCK FESTIVAL」の告知ポスターの現物(今まで写真でしか見たことがなかった)を拝見できるという思いがけない収穫もあったし。
どれも保存状態もよく、綺麗に展示されていらっしゃって、収集にかける情熱とBOOWYというバンドへのが溢れていました。
今年も貴重な展示をありがとうございます。興味深く拝見させていただきました。

【聖地?巡礼】

とはいえ、折角高崎まで足を延ばすのだから、もっと実りある訪問にしたい。
そう考えていた中で、思い出したのが昨年同時開催されていた「BOOWY聖地巡礼ツアー」のこと。

BOOWYのメンバーのうち、氷室京介氏、松井常松氏、布袋寅泰氏は高崎出身。当然市内にゆかりの地は多い。
もっとも、BOOWYは高崎で結成されたわけでもなければ、高崎でのバンド活動が認められてデビューしたわけでもない。故にゆかりの地と言っても、BOOWY結成前のメンバーに関連する場所とか、BOOWYがライブを行った場所ばかりなのだけれども。
それでも高崎市内には、彼らの足跡があちこちに残っている。
ならば、その足跡を個人的に辿ってみてもいいか。
そう思い立ち、行き先選定の参考にするため、昨年開催された「聖地巡礼ツアー」の行程を調べてみた。

しかしながら、昨年ツアーで訪れたとされる場所は、私が考える聖地基準から微妙に外れた場所も含まれているうえに、「拝啓ボウイ様」会場である高崎市もてなし広場からちと遠い
イベント会場から徒歩で行くのは厳しい場所を除外すると、行ける(行きたい)場所はほぼない。よって、昨年のルートを参考にするのはやむを得ず断念
だが、私は高崎に土地鑑がない。BOOWYゆかりの地に詳しい友人知人もいない。加えて、イベント日までそう日にちがない。となると必然的に、比較的入手しやすい資料で調べられ、場所の特定がさほど難しくないところに限られる。
そんな候補地の中から、イベント会場から歩いて行ける範囲の場所を選んでいくつか訪ねてみることにした。

………調べてみたら、当時とは大きく様変わりしていましたがね(泣)。
それもそのはず。何せBOOWYは40年以上も前に結成し、35年以上も前に解散したバンドだ。メンバー3人が高崎市内に住んでいたのは、彼らが高校生の頃まで。
バンド結成前のメンバーが足繁く通ったであろう店や、BOOWYとしてライブを行った店などは軒並み閉店又は移転。かげもかたちもない(物理的に)。

当然、当時の関係者もそこにいらっしゃるはずもなく。(いらっしゃったとしても、相手の迷惑を考えたら到底当時のことを訊き出すことなど出来やしないけど。)
ただ「訪ねてみた」だけになるけど、まぁいいかな、と。
主催者も「高崎でボウイづくしの1日」と謳っていらっしゃるのだ。その日はBOOWYのコピバンやゲストアーティストによるBOOWYの楽曲で盛り上がろうというのが主催者側の主旨であろうが、未だにコピバンの楽しみ方がわからない私は、BOOWY(のメンバーの4分の3)の「ゆかりの地」付近を自分の足で探訪して感慨に浸り、旅の最後にイベント会場にて「じぐろ京介with SPECIAL MEMBERS」の演奏を楽しむ。これが私的「高崎おとまちプロジェクト」であり、私なりの「BOOWYづくしの1日」じゃー!!

【雪草楽器・赤羽楽器】

というわけで、はるばる来たぜ高崎へ~。(言う程遠くはない)

ゆかりの(跡)地巡りのスタートは高崎駅西口から。
駅を出てすぐ右斜め前方に聳えるのが高崎OPA
上京前の彼らがまだ高崎に住んでいた頃はニチイ高崎ショッピングデパートがこの地に建っていた。「ボウイメモラビリア展」が開催されていたのは、こちらの7階特設会場
まずはこちらでBOOWYゆかりの品々をじっくりねぶるように拝見させていただいた後に、私の「BOOWYゆかりの地巡り」はスタート。

高崎OPAの裏手から伸びる道沿いにあったのが「雪草楽器」。

当時は、コンテストに出場することがアマチュアバンドにとっての一般的なプロへの登竜門であったという。そんなコンテストの一つ、「EAST WEST」は楽器店ヤマハが主催ということもあってか、楽器店からの応募で出場することになっており、ご多分に漏れず、氷室氏と松井氏が当時在籍していたアマチュアバンドも「EAST WEST'79」に「高崎地区・雪草楽器代表」として出場している。

そんな雪草楽器だが、Google先生に尋ねると、現在は江木町へ移転されている模様。しかしながら当時は、ここ八島町に「雪草楽器(株)」「雪草楽器DCM店」「雪草楽器LM店」の3店舗があった。
跡地には、別の建物が建っていたり、駐車場になっていたりと、当時の面影は全く残っていない。
デビュー前の氷室氏らが何度も通り過ぎたであろうこの通りは、今は人通りも少ない閑静な通りとなっていた。

往時を偲びながら道なりに進み、バス通りに出る。そのすぐ右手に「赤羽楽器」がかつてあった。
赤羽楽器は大正元年創業の老舗楽器店であったが、3代目社長の体調不良と後継者不在を理由に、2016年2月末に多くの人に惜しまれつつ閉店
往時は「ギターが1日30~40本売れた時もあった」とのこと。
赤羽楽器はデビュー前の氷室氏や布袋氏、松井氏も来店しており、氷室氏及び松井氏の幼馴染みでもある山田かまち氏の最後のギターもこちらで購入されたものだそう。
こちらも店舗は既に取り壊され、新たに建設された小洒落た建物には、美容室などが現在営業中。

ここから道を北へと進み、連雀町交差点付近へ向かっても良かったのだが、小腹がすいたため、かねてより狙いを定めていたパスタ屋(こちらはBOOWYとは全く関係ない)を訪れるべく、一旦高崎駅方面に戻ることにした。

【新星堂】

そうして腹も満たしたところで、「BOOWYゆかりの地巡り」を再びスタート。
今度は駅から右手に進み、OPAの隣に建つ高島屋の角を曲がって慈光通りへ入る。高島屋の道路を挟んで向かいに広がる駐車場に当時あったのは、「ダイエー高崎店」。
「BOOWYといえばダイエースプレー」な、髪がカッチカチに固まるというスプレーが販売されていた、あのダイエーだ。(このスプレーも既に生産終了になっている模様。)

実際のところ、上京前の彼らがそこであのスプレーを買って使っていたとは思っていないが、BOOWYがブレイクした後、髪を立てた彼らに憧れた地元バンドマン達がこちらでこぞってあのスプレーを買い求めたのかなと想像すると、思わずふふっと笑みがこぼれてしまう。

そんなとりとめないことを考えながら、そのまま通りを進んでいくと、程なく到着したのは連雀町交差点付近。
この交差点から徒歩数分圏内にBOOWYゆかりの(跡)地が幾つも点在している。案の定、いずれも当時の姿を留めていないけど(泣)。

そんな様変わりした地で、最もわかりやすい「ゆかりの(跡)地」は、「新星堂高崎店」(跡)だろうか。
通りに面した逆L字形状の駐車場。ここに、かつて新星堂高崎店(新星堂ロックイン高崎店)があった。

新星堂と言えば、前述の通り、氷室氏と松井氏が在籍するバンドが「高崎地区・雪草楽器代表」として「EAST WEST'79」に出場したように、布袋氏と、後にBOOWYのマネージャーとなる土屋氏が在籍するバンドが「高崎地区・新星堂代表」として同コンテストの関東甲信越大会に出場したという。

BOOWYのメンバー(特に布袋氏)は、アマチュア時代に同店へ通っていたとのこと。
また、アルバム『BOOWY』を発売した当時、同店でサイン握手会が行われたそうだ。「ものすごい数の人が集まって大変でした。でも、目を輝かせた少年少女にメンバーが兄貴のように接していたことが凄く印象に残っています」と、当時の同店の店員が証言している。(※1 P129)

公益財団法人高崎財団が発行する「劇場都市」vol.05に掲載された「高崎ロック史」でも、当時のレコード店・楽器店とアマチュアミュージシャンとの強い結びつきが描かれていた。(※2 P8-P11)

BOOWYのデビューアルバムが発売されると、高崎市内のレコード店は、BOOWYの特設コーナーを作って販促応援し、メンバーもこまめにレコード店を回った。
中心商店街のレコード店は、新星堂、サカイ、高崎名曲堂、タクミ、ドレミファ(ドレミ京極堂)があり、高崎名曲堂(大手前通り)の吉本店長とBOOWYのメンバーは懇意で「さっきまで布袋君がいたよ」と店先で盛り上がることもあった。
楽器ショップは、赤羽楽器、雪草楽器、根本楽器、松原楽器、ヤマハなどが高崎中心商店街にあり、県内一円から若者が集まり、多くのアマチュアミュージシャンを育てる役割を果たした。
ギター選びやサウンドづくりのアドバイスを受けたり、音楽談義に花を咲かせたり、貴重な情報交換の場であった。イーストウエストコンテストは、楽器店からの応募で出場するので、バンドと楽器店の結びつきは強かった。
当時、アマチュアバンド活動が盛んになると、雪草楽器や新星堂にスタジオが作られ、BOOWY、バクチクのメンバーもここで練習をした。
(※2 P10-11)

この頃、新星堂高崎店に勤務し、BOOWYやバクチクと親交のあった中島賢治さん(高崎サウンドサービスプランニング代表)は、店内でのミニコンサートの他、隣接する飲食店でもライブを企画しており、BOOWY初期のライブ記録に店名である高崎 「Make−up」の記載が見られる。BOOWYのデビュー(1982年)以降に新星堂主催の高崎ロックフェスティバルが数回開催されている。中島さんは高崎出身でメジャーデビューまたはデビュー間近のミュージシャンを数組招聘。「この頃、プロを目指した若者の動きが出てきた」と感じていた。
1984年10月10日、高崎市文化会館で行われた同フェスには、地元のアマチュアバンドと「非難GOGO」から改名したばかりのバクチク、ゲストとしてBOOWYが出演している。
高崎ではそれまでもロックコンサート用の会場を探すのは大変だったが、このコンサートがきっかけで皮肉にも逆風が強まることになる。この時、会場楽屋の通路が出演者らのブーツで汚れてしまったこと、会場内で爆竹を鳴らしたファンがいたことで、中島さんたちは会場の清掃にも心をつくした。この後、高崎市の会館はロックのコンサートに風当たりが強まったという経緯がある。
(※2 P11)

こちらの「高崎ロック史」で「中心商店街にある」として名が上がったレコード店・楽器店だが、現在では軒並み移転又は閉店しており、当時の地で営業しているお店は残念ながらない

【高崎MAKE UP】

BOOWYのメンバーと店長が懇意であったという「高崎名曲堂」(跡)は、新星堂に向かって左隣(正確には数軒先)にあった。(「高崎ロック史」には「大手前通り」とあったが、この辺りはまだ慈光通りではないのだろうか。地元民ではないのでよくわかりませぬ。)
そして高崎名曲堂の反対側、新星堂に向かって(新星堂の左隣)にあったのは、西脇時計店(跡)。この時計店の2階に、新星堂の店員が企画したライブの場所として「高崎ロック史」に挙げられていた「Make−up」があった。
1983年12月18日に開催された「TAKASAKI ROCK FESTIVAL」のポスターに掲載された広告(?)によると、「レストラン&パブ LIVE SPOT」だそう。

公式にも、1983年9月25日10月22日に「高崎MAKE UP」でのライブ記録が残っている。(※1 P123-124)
新星堂の隣』で思い出すのは、「高崎の新星堂に隣接する時計店の2階でBOOWYがライブをしたら客が入りすぎて、しかも客がダンスをして揺れるものだから、階下の時計店の時計が全部狂った」というエピソード。
新星堂の隣だし、時計店の2階なので、このエピソードは恐らくこの「高崎MAKE UP」の時のものだろう。9月と10月のどちらか、或いはどちらもなのかはわからないが。
ちなみに、新星堂の右側(新星堂と高崎名曲堂の間)にも時計店がある。が、こちらは時計店のみ(多分)なので違う。(何故こんなに近くに時計店が2軒もあるのか謎。)

とは言え、観客が踊り狂ったくらいで時計が全て狂うものなのかという気もするので、このエピソード自体の真偽は定かではないが、「BOOWYで思い出に残るライブ」として、BUCK-TICKの今井寿氏とヤガミトール氏が揃って「高崎Make−up」を挙げていることから(※3)、恐らく相当盛り上がったのであろうと推察する。

ところで、このBUCK-TICKの御二人が答えたアンケートで、ヤガミトール氏がわざわざ「82年 高崎Make−up」と書いているのだが、82年にもやっているのでしょうか?それともヤガミ氏の記憶違い?
後追いニワカな私にはわかりかねます。

現在、「高崎MAKE UP」(跡)は、1階が居酒屋、2階は焼肉店となっており、建物はそこそこ年季が入っているように見受けられた。
気になったのはうっすらと残る壁の汚れ。というか、壁面に設置されていたであろう店名(一部)のチャンネル文字の跡。目を凝らすと微かに『  キシーズ』と読めるような……?
「MAKE UP」ではない。のだが、実は「MAKE UP」はBOOWYがライブを行った数年後に店を閉めている。少なくともBOOWYが解散した頃には、「ディキシーズ」(或いは「ディキシーズ30」)というレストラン(?)に変わっている。
壁の跡と、「MAKE UP」の次に入居した店の語尾が同じ
……。
もしかして、建物自体は当時のもの、か?

勿論、BOOWYのライブからもう40年も経つから、途中で建て替えた可能性も否めない。私も現在に至るまでの全ての入居店舗の変遷は調べていないし、そもそも店自体が変わっており、変わる度に内装・設備は全取っ替えになるから、当時の建物であってもなくても、あまり意味がない。調べようと思えば調べられるけど、そこまでするほどではないかな。
そういうことで結論は出していないが、もし私が高崎に住んでいたら、記念に1回くらいは焼肉を食べに行って、感慨に浸ったかも。(笑)

【パブゴールド】

さて、この「高崎MAKE UP」や「新星堂」のすぐ近くにあったのが、イシイビル3階の「パブゴールド」(跡)だ。「BOOWY HUNT」の「HISTORY」には、BOOWYがゲスト出演した「高崎アマチュア・ロック・コンテスト」(1984年7月25日)がこちらで開催されたとある。
それにしてもパブでアマバンのコンテストなんてよくやったなあ。18歳未満の出演者が普通にいそうだけど。(苦笑)
現在のビルの名前が当時と異なっているので、こちらは建て替えられたのではないか。
「パブゴールド」と同じ3階に何があるかは、ビルの前の通りからちらっと見ただけではわからなかった

【ヤマハ・その他】

ヤマハ高崎店」も、やはりこの近く。連雀町交差点から北へ向かう大通り沿いにかつてあった。
松井氏は、自伝「記憶」で、「あるとき、高崎駅の近くにあったヤマハ音楽教室に併設されたホールで、アマチュアバンドが集まってライブをやっているらしいと聞きつけて行ってみると、自分たちと同じぐらいの年齢の人たちがステージの上で演奏していた。これは、エアロスミスのときとはまた違う衝撃だった。しかも会場には、そのバンドのファンらしき人たちまでいる。当時の僕らにとって、これはすごいことだった」と当時を述懐している(※4 P32-33)。また、布袋氏と「高崎のヤマハで知り合った」との言葉もある。果たしてこれがその「ヤマハ」だろうか。
連雀町にあったこちらのヤマハ高崎店には3階に100名程度収容のヤマハサロンがあったというので。
ただ、ヤマハ音楽教室自体は市内に何店舗もあるのと、前述の「高崎ロック史」の中で、「70年代初頭の高崎にライブハウスはなかったが、市内の楽器店ホール(新星堂、常盤町のYAMAHA)で、高校生、アマチュアバンドのコンサートが行われていた」とあるため、確信はない
だが、今回私が調べた限り、メンバーが高校生だった頃の常盤町にYAMAHAの存在が確認できなかった。(もっとも今回は高崎訪問まで時間がなくてざっくり調べただけなので、私が見落とした可能性も否定できない。)それに常盤町だと、(私の感覚では)あまり駅近の感じがしない。
なので、連雀町のヤマハ高崎店を、私の中では「松井氏が訪れたかもしれないヤマハ」(暫定)としておきたい。
もっとも現在はその地にヤマハの店舗自体がないけど(泣)。

【商都に集まる若者達】

そこからさらに北へ進み、田町の交差点付近には、ドレミ京極堂(跡)と根本楽器(跡)、さかいレコード(跡)が、幹線道路から1ブロック離れた通り沿いには、中紺屋町に松原楽器(跡)、鞘町にタクミ(跡)があった。
いずれも閉店または移転している。

今回実際に歩いてみて感じたのは、とにかくどの店舗も近い!ということ。
連雀町交差点を中心に半径300mくらい(目測)の範囲内に、氷室氏らメンバーが足繁く通ったレコード店や楽器店等々が集約している。

「写真アルバム 高崎市の昭和」によると、連雀町交差点は、高崎でもっとも歩行者の通行量が多い場所であり、昭和38年には日興證券前と金子園前を合わせ1日に約2万人にも及んだそうだ。そうして交通に支障が出たことで、昭和45年12月に全国で2番目のスクランブル交差点となった。(※5)

近くにはファッションビルBIBI高崎や藤五伊勢丹デパートがあり(いずれも現在は閉店)、大手前通りに入って少し歩けばスズラン百貨店高崎店もある。先ほど通り過ぎてきたタカシマヤとダイエー(現駐車場)、ニチイ(現OPA)も徒歩数分圏内
この交差点付近は、群馬県の商業地公示価格の最高額を記録したこともあるとのことで、この辺りはまさに当時の群馬の商業の中心地だったのだろう。
そんな賑わいのある商都に近隣の若者達が押し寄せ、その中に当時高校生だったメンバー達もいた

それでも高崎に住んでいた頃は、氷室氏も布袋氏もお互いあまり親しく付き合っていなかったと仰っていたが、これだけ狭い範囲でお互い活動していたのであれば、そりゃあニアミスも多かっただろうな、と。

松井氏は、高校時代に布袋氏と「友達ではなかった」が、「ただ、一度だけ高崎のヤマハで知り合ったあとで、僕と氷室くんとで布袋くんの家へ遊びに行ったことがありました」と自伝「記憶」に記していた。(※4 P47)
また、バンドを組む前の話として、肺気胸を患って山奥の病院で療養中の布袋氏を松井氏と氷室氏でお見舞いにいったエピソードを披露している。

こちらを読んだ際、「友達でもないのにどうして家に遊びに行ったり、わざわざお見舞いにいったりするんだろう?」と疑問に思った。
今回、実際に高崎の街を歩いてみたことで、たとえそれほど親しくしていなかったとしても、同じくバンド活動をやっている人間同士として、レコード店や楽器店、或いはそこへの行き帰り等々で顔を合わせる機会が多かったのだろうということが容易に想像できた。

そして、「オマエもバンドやってるのかよ!」「よく知らない奴でも音楽好きな奴はみんな仲間だゼ」的なヤンキー特有の奇妙な連帯感というか暑苦しい仲間意識で、氷室氏と松井氏が布袋氏宅へ押しかけた遊びに行ったのではないかなと思う。
布袋氏のお見舞いに行ったのも、「最近布袋見かけないね-」「あぁ、アイツ入院したらしいゼ」「マジで?!じゃあ、お見舞い行こうゼ!」「なあ、お見舞いって何持ってったらいいんだろ?」「寝てばっかじゃ退屈だろうなー何か暇つぶしになるもの?」「あ、エロ本とか持ってってやりゃ喜ぶんじゃね?!」ってなノリで行ったのではないかな?と想像するととても楽しい。(注:私の妄想です。そもそも布袋氏が入院した正確な時期を存じ上げないので、見当違いだったらごめんなさい。)

ちなみに松井氏の自伝には、氷室氏と共に布袋氏宅へ遊びに行った際、布袋氏に薄緑色のクリームのかかったチョコレートを勧められた松井氏が、「これ、美味しいね!」と食べたら、布袋氏がケラケラ笑いながら「これは歯磨き粉かけたんだ」と種明かしされた話が紹介されている。(※4 P47-48)
布袋氏の持ちネタの一つに、「バンドメンバーを探していた氷室氏から呼び出された時、『(氷室氏から)殴られるんじゃないか』と思って怖々会いに行った」という鉄板ネタがあるが、この歯磨き粉チョコのエピソードから察するに、この「殴られるかもと思った」というのはウケ狙いの創作なんだと思う。
いくらなんでも、そんなすぐ殴ってくるようなタイプの人間(と一緒に来ている人)に対して、歯磨き粉をかけたお菓子を勧めないかと。
布袋氏はなぁ、夫婦喧嘩で(妻を殴り損ねて)腕を骨折して病院へ行った際、ヤのつく職業の恐いおじさま達が「おい、先に行かせてもらうぞ」と横入りしようとするのを、付き添った吉川晃司氏が必死に止めようとしているのにもかかわらず、「お先にどうぞ」と譲ってしまう(吉川氏談)ような、自分より弱い相手には強気だけど強者にはビビリな人なんだぞ。酩酊状態でもいない限り、そんなことを本当に「殴られるかも」と思っている相手に対してできないでしょうに(苦笑)。
まともにバンドで成功してやろうと頑張っている人間から見ると、あまりにも自堕落で生温い生活をしている自覚が布袋氏本人にもあって、「もしかしたら怒られるかな?」程度の気持ちだったのを誇張して言ったのではないかと思っている。布袋氏は良くも悪くもエンターテイナーではあるのでね。

そんな埒もないことを頭では妄想しながら、次の目的地「高崎市福祉会館」(跡)へ。

と、ちょっと長くなったのでここで一旦切ります。続きは後編で。
後編は、高崎市福祉会館と高崎市文化会館、番外編としてクラブ銀座をお送りする予定。
なお、出典・参考資料は後編の最後に掲載します。


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