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ワタシノ足跡〜第八章 山を下りる〜

僧侶としての修行を重ねているうちに
眼には見えないスピリチャル的な戦い。

そして、
現実世界との闘いもさらに始まった

私には、読経(御経を読む)をすると
読経を口に出し読んでいるのだが
脳内で画像や動画が流れるという

スイッチが入るというか

コンビニなどでスマホに
Wi-Fiが勝手に繋がる事がありますが

そんな感じで何かと勝手に読経をすると繋がり
スイッチが入るのです。

その瞬間の自分自身の容姿を見たことが無いので
あくまでもイメージですが
背筋を伸ばし凛とした姿勢で
読経を行う際に自分の身体の力を
自分でコントロール出来ないのです

経本(お経の本)を落としたり、
姿勢が悪くなったり
読経の声が小さくなったりします。

時には師匠とふたりで
時には自分ひとり、また兄弟子とふたりと
様々な組み合わせで朝の勤行を行うのです。

スイッチが入る

その経験の無い兄弟子から
スイッチの入った状態の私を見たら
怠けているか、寝落ちしているかのようにしか見えず
勤行後によく烈火の如く叱られてました。

師匠からは叱られることはありませんでした

スイッチのON、OFFは自分自身で
コントロール出来ないので
どうしようも無いのに兄弟子たちからのお叱り

下瞼にメンソールをこっそり塗ったり
脚をつねってみたり
スイッチが入らないように
あらゆる抵抗をしましたが無駄でした。

縦社会のコンプライアンスもパワハラも
通用しない厳しい世界ですから
兄弟子方に自分の身に起きてる状態など
相談することも出来ませんでした

勤行の時間が苦痛に感じるようになっていました

僧侶は宗派によって違いはありますが
世間的なイメージでは読経の際は
足元は正座という印象が強いでしょうが

修行のある段階を終えると正座から
結跏趺坐(けっかふざ)
半跏趺坐(はんかふざ)と言われる
座り方をします。

葬儀場などは椅子に着座の場合もありますが
この2つの座り方も腰が痛くなりますが
正座よりは幾分かは楽です。

衣(ころも)で足元を覆い隠す作法がありますので
一般的には知らない方が多いのです。

結跏趺坐(けっかふざ)

右の足を左のももの上にのせてから
左の足を右のももの上にのせる。

半跏趺坐(はんかふざ)

左の足を右のももの上にのせる。

ちょっと話は横道に入りますが
正座は、諸説ありますが江戸時代以降の座り方です。正座とは武士や侍が「敵意がありませんよ!」という意味合いの座り方です
江戸時代以前は片膝を立てて座るかあぐらを組んで座るか。など様々な座り方があります。武士が何者かに襲われた時に正座だと脚が痺れたり防御からの攻撃といった動作が出来ないので本来は正座はしないのです。

その当時の修行中は私だけが正座
他の僧侶は半跏趺坐(はんかふざ)という感じでした

「なぜ、自分だけが」という幼い反抗心もありました

私は多少なりに法力を身につけ出していました
信者さんにご相談までは行かなくても
アドバイスをお伝えする事もありました

また師匠の随行という
身の回りの付き人のような事もしていましたので
お祓いや祈願など同行していましたので
信者さん方にも顔と名前を覚えて頂く機会が多く

師匠に渡される祈願料やお祓い料
いわゆる、お布施とは別に
こっそり私にもお布施を頂くことが増えてきました

一般的にお布施=金銭という感覚がありますが
御茶菓子や食事をご馳走になるなどもお布施になります

お布施は受け取って初めて相手さんの功徳になる

ご馳走になったり提供されたお茶や食事は
残さず完食する差し出された御茶菓子などは、
その場で食べれなくても必ず持ち帰る

それも僧侶の作法と教わっておりました

「私にまでお布施を頂きました」と
師匠にお伝えすると

【御前が頂いた
 御布施だからありがたく頂戴しなさい】

と言われました。

弟子でもあり、小坊主の身分ですから
その当時の御寺から頂くお給金は5万円でした

そのお金から
足袋や衣や経本や念珠などを買い揃えたり
海外での修行なども自分の身の回りの必要なお金は
自分で用意しなければいけないのです

海外に約1週間ほど滞在するのに
手持ちのお金が2万円とかよくありました

最初は自分如きが
御布施を頂くことを恐縮してましたが
あまりの貧困と修行や身支度の重ねる出費に

御布施をどこかで期待している自分がいました

「 あなたはたくさんの人を
  救っていかなきゃいけない人だから
  御金の事は気にせず
  たくさん修行を積んでください 」

そのような言葉を添えて
定期的に自分のお給金以上の御布施を
頂くこともありました

そのうちに
「 海外に修行に行くので
  すこし寄進頂けないでしょうか 」

寄進とは
「寺社に自ら金品を寄付する」ことをいいます

そんな事まで平気とまでは言えませんが
「修行のためだから仕方ない」と
自分に言い聞かせながら
寄進を求めることも増えてました

うぬぼれていました

ある時を境に
そんな自分に嫌悪感を抱くようになりました

「 巨人軍のユニホームを着て
  東京ドームにいるだけで
  3軍の選手だろうが、
  子供たちが寄ってきてサインをねだる 」

一軍のレギュラー選手のような振る舞いで
子供たちに応える

そのような自分の身分相応に相応しくない行いに
自分自身うんざりしてました

その裏腹に
御布施をしてくれる信者さんたち

現実的には
御布施を頂けると経済的に助かる

「この御布施に値するほどの行いが
 自分は出来ているのか?
 ただ、自分が師匠の付き人だから
このような優遇されているだけだ」

この経済的に助かる自分と身分不相応に感じる自分

葛藤の日々が続きました

このまま、お寺にいたら嫌な自分になってしまう‼︎
お寺を離れて、外の世界で働きたい

僧侶という心で、一般の世間で働きたい!

その想いが日増しに強くなってしまいました

下座業や作務もなるべく
ひとりで誰とも交わらないような作業を
選んだり人が少ない時間帯を選んだりするように
なっていました。

どれくらいのそんな日々が続いたでしょう

スピリチャルな法力抜群の師匠ですから
私の想いに気付かれていたのでしょう

師匠の付き人仕事も別な方がされる事も増え
自分の役割りも減っていきました

ある日の夕方
師匠の部屋に呼ばれました

「 御前は山を下りたいのじゃないのか⁈

山を下りていいんだぞ、外の世界に出てこい。

但し、衣(ころも)だけは大事に保管する事  」

僧侶の世界では
自分たちの御寺を山という表現もします
高野山に行く事も
「山に登る とか 高野の山に登る 」
という言い方をします。

「 はい、わかりました。ありがとうございました!
  山を下させて頂きます。」


いろいろ相談したい事や
言い訳めいた事もお伝えしたかったのですが
口に出す事はしませんでした。

今、振り返れば師匠の
「山を下りていい」
その言葉は親心というか慈悲だったのかも
知れませんがその時は
私はその師匠の想いにも気付けないほど
心がささくれていました。

その頃の私は
少し法力が付きスピリチャルな感覚が
開花してましたので
現世は師匠と弟子という関係ですが

5人兄弟の歳の離れた長男で自分が下から二番目の弟
親父のような兄貴だという前世の時もあり

また違う前世の時代では
高野山のどこかのお寺の師匠と弟子だった
という事スイッチの入った時間の映像で観て
気付いていました

今、思い出したのですが
仏門に入門した直後
高野山の行った事がない自分の
「取り合えず、取り急ぎ
 高野山にご挨拶に行って来い‼︎」
と師匠に言われた事を思い出しました
山を下りて10年後くらいに高野山に
弘法大師空海から代々と流れる
僧侶の師匠と弟子の系図みたいなものが
記された石碑があり、その中に
今から数百年前の系図に漢字は違いますが
師匠の名前の下に自分の名前が記されたものに
出逢ったことがあります。

寺務の方にも、兄弟子の方々にも
下山の挨拶せず本尊さまや仏様にだけ

「 一生この身で
  仏様の御手伝いをさせていただきます。
  どうぞ私で良ければ
  御自由にお使いくださいませ!
  誓いを守れず、申し訳御座いません  」

手を合わせ頭をさげて
衣を風呂敷に包み

まるで犯罪者のような気持ちで
人知れず山を下りました。


つづく           




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