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抗うは醜し

いつもと違うルートの散歩道に、小径にベンチが2基備え付けられている。
ベンチの座面は木製だから、10年以上も経てば朽ちてくる。使用には耐えないだろうが、この朽ちていく様が何とも美しく見えてしまう。

利用するベンチでは無く、自然の流れ、時の移ろいというものが、長い時間の変化というものが、ベンチの朽ちる姿から見て取れて、なんとも「もののあわれ」を想われる。

左は銀色の塗料

2基のベンチ、手前のは銀の塗料が塗ってある。一見、濡れたように見えるが、水を弾いて乾きが早いらしい。朝露の冷たさはあるが、表面は乾いて座れないこともない。
奥のは既に朽ちた部分が多く、削って塗るには既に遅すぎたのかもしれない。フカフカになった部分は水を含み、乾きが遅い。

銀に塗られたベンチは使用に耐えられるだろうが、2基並んだときに、あえて季の流れに抗う姿に、なんとも醜さを感じてしまう。

右は朽ちかけてる

表面だけでなく、その奥にまで腐食は進み、数年で座るには耐えられないだろう。朽ちてなお在る姿に、老いることの「美」を感じるのは、自分の受け止め方が偏屈なのだろうか。

早朝の散歩、誰もいない。半年くらい前までは、常時10名を超える高齢者が歩いていた。暑い日も寒い日も、季節に抗して、身体の老いや衰えをくい止めようとしていた。今はどうしているのだろうか。

それはそれで、「生」の全うを求めるようで美しい姿と想う。かつては老人の抗いと、偏りの眼差しだったかもしれない。数年間、同じ様な抗いを行い、その中に朽ちていくベンチと同じ様な何かを感じてきた。

銀の塗料で塗られたベンチは、わずかでも生き延びさせようとする、まるで病床に寝かせてチューブだらけになっているようだ。などと穿った捉え方をしてしまう。

猫が2時に起きて運動を始めると、一緒に起きて羽箒で遊ぶ。疲れて部屋に戻って寝れば、一緒に布団に入る。寝たいときに寝て、目が覚めれば起きる。
とくに贅沢な食べ物を欲しいとは思えなくなり、自分好みに少しだけ調理をして、食べたいときに食べられれば充分だ。
ギリギリ生活できる年金しかないが、それ以上欲しいとも思わない。いま金を持ったとしても、何が欲しいのか分からない。

いま、本当に欲しいものはといえば、無為に過ごしてしまった時間かもしれない。

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