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大震災の思い出

正月の年賀状で、家族写真や子供の写真の年賀ハガキが来ていた。
能登半島地震のニュースを見て、こういうハガキを受け取ると、
東日本大震災後の、何とも忘れがたい思い出がよみがえる。


連日、能登半島地震の緊急余震速報が出ている。
状況を伝える映像を見ると、雪はないようだ。
早急なインフラの復旧が望まれるが、
地形的に道路の分断が起きていないだろうか。
避難所の整備と、医療関係や食事などの確保なども急がれるだろう。
倒壊家屋の処理と共に、今後の住宅確保など、
安心材料の早い対応が望まれる。


今さら政府批判はしたくはないが、
東日本大震災における政府の対応はヒドイものだった。
支援金の配布も、本人確認が出来ないからという理由で、
いつまでも行われなかった。
役場は震災で破壊され、戸籍簿など流されてなくなっているのに。
被災者が集まって、残された食材で炊き出しを行ったときには、
医師・栄養士・調理師がいないという理由で禁止された。
やっと届いたのがパンと牛乳だった。
地元有力者や議員も総出で救助に来ていたが、中央政府の対応の遅さ、
というよりも、無能さに怒りが湧いた。


瓦礫処理で参加していたとき、瓦礫の中から位牌や写真など、
思い出となる物は一ヵ所に集められた。

瓦礫の中からハガキの束を見つけ、現場監督の元に届けた。
七五三のお祝い写真に、
「私たち家族は、念願だったお店を開く事ができました」
そんなような内容が書かれていた。
監督はしばらくそのハガキの束を見ていて、
これはもう必要無いでしょう、
そう言って可燃ゴミの方に置いて頭を下げた。

この地区に越してきて、4月からご夫婦で美容院を開く予定だった。
子供二人と共に、親の住んでる故郷に戻り、開業する事を夢見ていた。
そのハガキは、まだ出す前の、開店の挨拶状だった。
新しく建てた住宅兼美容院と両親の家、建物は全壊、
全員の御遺体が回収され、ハガキの束を届ける相手もいない。

昼食時にその話を聞いて、どうしようもないくらい胸が苦しくなった。
自分自身が被災者でもないのに、もう耐えられず、以後の参加は断った。

教育は国家百年の計、という。
今でも反日教育を続けている結果が、こういう事かと思う。
あの時も堂々と公の場で、
大震災が起きた事を祝う垂れ幕を掲げた国があった。
あの状況を見たからこそ、怒りよりも、
同じ人間として災害を喜ぶという事が理解できなかった。
人間として、最低限の礼節に欠けている。

今回も両国で同じ様な事が起きているようだ。
今でも国の教育の場で、反日教育が行われているという事は、
百年経っても和解は難しいと思えてしまう。

1970年代、様々な技術の輸出と経済支援も行ってきた。
塑性加工の部門で、自分も行きたかった。
日本国としての誠意が、何も報われていない。
援助の結果が今も続く半日教育で、この結果だ。

国家百年の大計、これからの日本の教育は、
シッカリと近現代史に力を入れて学ぶ必要がある。
感情論ではなく、正しい記録を元に、
正確な歴史を学ぶ必要がある。
その上で、どの様な国であっても災害時には、
共に手を携えて助け合う事も学ばせなければと思う。


笑顔の子供達の写真で年賀ハガキ、
能登半島地震の惨状と重なり、
息苦しくなるような哀しさを覚える。

能登半島地震では、早い段階での自衛隊の出動要請が出された。
厳しい寒気の中、早く笑顔の家庭に戻れるように、
ただ願う。


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