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阪神淡路大震災の日

冒頭の写真は、2011年3月11日の東北地方太平洋沖地震の、被災写真。これは宮城県の・・・何処だったのか、海岸から6km離れた所にまで、船やコンテナが流されていた。飛行場は液状化で水が出て、滑走路も使えなくなっていた。

今日は「ボランティアの日」だそうで、阪神淡路大震災で大勢のボランティアが全国から駆けつけて復興作業を手伝った。それを記念して「ボランティアの日」が作られたそうだ。

1995年1月17日午前5時46分、兵庫県南部を震源とする直下型大地震が発生した。戦後最多の死者数6,434人、行方不明3人、負傷者43,792人、という阪神淡路大震災となった。

数年後に小・中学校の同窓会が行われた。その時に芦屋に住んでいる友人が来ていて、当時の話を聞いた。彼は小学校の途中から来て、中学の途中で芦屋の自分の家に帰った。学校の近くのチョットした森の中に、ダークグリーンの壁に、屋根の急斜な二階建ての洋館に住んでいた。二階にはバルコニーがあって、煙突も立ってる映画に出てくるような家だった。彼は人付き合いが悪く、同じ様な自分とは気が合っていた。挨拶も無く急に引っ越してしまい、といっても洋館は親戚の家で残っていたのだが。

幹事が電話で連絡が出来ずに、住所を頼りに訪ねたら、長い土塀に囲まれた日本風の大豪邸だったそうだ。そんな紹介をされても、彼は何となく壁の花になっていた。声をかけられたが、子供の頃の面影が全く無く、住んでいた洋館の家で遊んだことなどを聞いて、やっと思い出した。高校進学のために、芦屋の家に戻ったそうで、大学は京都大学だったかな、その受験のために中学に入ってすぐに帰ったそうだ。


芦屋と聞いたので、地震の時のことを聞いてみた。ちょうどトイレに入ったときで、とつぜん身体が天井に叩きつけられ頭を打った。天井は高かったのに、座った状態のままで、天井に頭を打ち付けるほど上に飛ばされたので驚いたそうだ。直ぐに家の中を見たが、特に壊れたり倒れた物も無かったので、何事が起きたのか見当も付かなかったらしい。

住み込みの人達が外で騒いでるので見ると、道を隔てた先から海辺までのほとんどの家が倒れていた。強い余震でやっと地震だと気付いたそうだ。ただ毎日見ていた光景が、全く違ってしまって動くことも出来なかったとか。上空をヘリコプターが数機飛んできて旋回し、やっと事の大変さに気付き、家の中の毛布や食材などを数台の車に積み込み、いつでも出られる用意をした。電話での連絡は全く出来ず、ただ芦屋の住民だけはみな無事だったので、話し合っていつでも救助に出られる用意はしていた。

余りにも酷いやられ方で、救急車や消防の音も聞こえない状況だったらしい。ただヘリコプターが飛ぶだけで、道も見えないほど全てが崩れていた。時間が経って、煙が出始めたら火災が起きて見る見る広まっていったそうだ。後はまさに地獄という物を見てるようだったとか。

ヘリコプターは自衛隊機で、各地の米軍駐屯地から支援準備が出来たと連絡もあり、状況を把握するために自衛隊のヘリコプターが飛んでいたそうだ。自衛隊と米軍が出動準備できていても、時の総理は自衛隊反対論者で、まして米軍の駐屯にも大反対、自治体の組長からの救援要請も遅れた。火災発生になると、すごい渦巻きのような火災が拡がって、上空からの消火作業など出来なくなった。あの大火災の起きる前に救援が来ていたらと言っていたが、誰もがこれ程の大火災になるとは想像もしていなかったのだろう。

後日責任問題が起きてきたら、ほとんどが古い家屋で、火災が起きなくても亡くなった人のほとんどは既に圧死をしていたという。そこが問題ではないと思うのだが。


結局何も出来ずに火災が拡がるのを見てるだけで、近場の人達の救援が精一杯だったとか。いつも通っていた街が形が無くなるほど崩れ、それが火の中に飲まれていく状況を、狂ったように拡がっていく火災の状況を見てるだけで、何も出来ずに大勢が亡くなっていったことを思うと悲しく悔しいと言っていた。

大地震が起きて、大勢の犠牲者が出て、どの様な対応が良かったのかを論じているが、いかに行動すべきかを決めておくことも大事だと思う。東北沖地震でも、最近の能登半島沖地震でも、わずかな距離の違いで助かる人と被災する人が別れる。それは仕方ないにしても、互いに助け合う体制も大事だと思うが、意外にできていないように思う。

東北地方太平洋沖地震でも、生き残った人達が助け合って炊き出しをしたら、医師・栄養士・調理師がいない場合は止めるように通達が出たらしい。数日したらパンが届いたとか。喉に詰まると言えば、次からは牛乳が付いてと言う。能登沖地震では早くからパンの支給や自衛隊の救援も入ったらしい。時のトップや自治体組長によって違いが出るようでは困る。

高齢者に対する地域包括ケアシステムをもう少し早く体制を整えて、災害時にも応用すべきだと思う。実際に被災直後の状況を見ないと、実感は湧かないものなのだろうが。

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