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卑屈の親玉が現われた

父がコロナで入院したのが1月末。
何度か危機を乗り越えて、いまもまだ入院中です。

元気で病気知らずだった父は82歳
長く臥せっていたため、だいぶ足腰が弱ってしまったようです。

肺機能が戻らないので酸素をしていて、少しでも動くと酸素不足になるため
今はほとんど寝たきりの状態で過ごしています。

お父さん、愚痴も不満も言わないし、前向きでお調子者なので
病院のスタッフには人気ありました。

父は、言わないんじゃなくて、言えないんだろうな。
他人に愚痴なんて、聞いてもらうもんじゃないし。

私と父は性格がよく似ている。

外面がよくて、家庭内ではせっかちで気の短いところも。

似たもの同士のせいか、父にイラっとしてしまったり
あまり好きになれないと思ったりした。

もちろん家族として、父としては大切に思っているけれど、
些細なことが目に触ってしまう。

父のことは嫌いだな~と思うけど
縁が深いというか、嫌いな分、離れがたい身近な存在なんだろうなと思う。
嫌いという感情には意味があって、自分の嫌いな部分を、鏡にしてみているからなんだろう、と理解している。

その父が入院した。

父がいなくなって、母と2人の生活になった。

母は、目がほとんど見えなくて、耳もあまり聞こえないので
父に頼りっぱなしだった。

これからは父の代わりに、母のことをリードしなくちゃいけない。

まぁ、最初は良かった。

穏やかな日々が過ぎていた。

しかしだんだん・・・
今まで父の陰にかくれてたから気にならなかったし
父と私の間を取り持つ役目をしてたのもあって、バランス取れてたんだろうな

忘れていたけれど母は、スーパーネガティブな人だった。

「東京に来なきゃよかった」

「あんたに迷惑をかけて申し訳ない」

「私らがいなければ自由になれるのにね?」

「生きていても何もならん」「いいことなんてない」

家族が具合悪くて、あの手この手で走り回って最善を尽くすのは当然のことで
それを負担だなんて思ってないのに、

こんな言葉を浴びせられると・・・参ってしまうよ・・・


油断してたわ。。。

こんなところに、親玉がいた!!



子供の頃に、親から無意識に植えつけられる「価値観」

どうやら私の母を見ていると、
「役に立たなきゃ、存在価値はない」という観念があるようだ。

たぶん、私にもそういう観念があったんだろう。

長男が学校に行けず、精神的に詰んでて思い悩んでいたときとか
そんな価値観をもっていたかも・・・と思った。

そして、長男も・・・その私と同じ価値観を持ってしまったんだろうな。

引きこもりを脱して、会社を立ち上げたときは、とても誇らしげだった。

「役に立つ存在であること」が自分の存在価値になっていたのかな。

長男は、28歳で亡くなりました・・・


価値観や観念は、引き継がれる。

母のネガティブな発言の嵐に、うんざりしながら

過去の自分と重ねる。



「自己卑下」

自分を見つめなおすワークやアドバイスの中で、
度々出てくる、私のキーワードだ。

「わたしなんか」と自分を卑下する癖。

いま目の前に、母を通して見せられているものは、私の中にある観念。


家族っていうのは、だから厄介で強烈だよね。
離れないし、毎日触れるし。


つい、優しくなれない器の小さな自分を責めたくなる。

どうして私は、そんなに自分のことが嫌いなんだろう。


もう一度、子育てをするなら、こうするだろう
と思っても、やっぱり繰り返してしまうのかな?
それでも・・・


老いた母の相手は、まるで幼稚園児の子育てのようなところもある。

自分以外の人を無条件に愛せないから
自分も条件付きでしか、愛されないと思っている


この悪循環を断つ方法は

とにかく人を無条件で愛するところから


なのかな。

難しいな。

毎日毎日、自問自答する。


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