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皆さん、こんにちは!

5月前半はお休みを頂いていたので、お久しぶりのももこです。

私にとってこの5月は、充実したゴールデンウィーク…、大学の授業に慣れて効率的に課題をこなせるようになった日々…、友人との歓談が心地よい時間…、

ではなくっ!

朝から晩まで、書道!書道!書道!の書道漬けの毎日でした。

というのも、年に2回ある書道の昇段試験のうち、1つ目の試験の締め切りが迫っていたからなのです。今回私が受けたのは5段から準師範への昇段をかけた試験。段が上がれば上がるほど、昇段試験に合格するのはとても難しくなります。周りは試験に何度も挑戦して力を蓄えてきたベテラン勢。対する私はこの度初めて受験する新参者。それに加えて、提出作品の難易度も高く、半紙三体(楷書・行書・草書)、書体自由の条幅1枚、条幅臨書1枚と、自身のキャパシティをはるかに超える課題が課されました。(以下、昇段試験を昇試と略します)

ビクビクしながら作品制作に取りかかると、昇試のことは頭の隅に置き、夢中で書に向き合っている自分がいました。ここが書道の不思議なところ…。書く動機が何であれ、一度手に筆を持ち、筆に墨をたっぷりと蓄えさせ、紙に触れさせた瞬間、滑らかに腕が回転して、軽快に体がリズムをとり、気がつけば1枚の作品が出来上がっているのです。そして、書き終えた恍惚感に浸る間もなく立ち上がり、作品を俯瞰して見ると、文字の配置や線の強弱・潤渇など、直すべきところがありありと見えてくる。そんなことをもう1枚、もう1枚と繰り返しているうちにだんだんと時間が溶けていくのです。

今月は長いようであっという間の日々でした。朝大学に行く前に少し書いて、帰ってきてから寝るまでも書き続ける。書に向き合って、気がつけば日が差しているなんてこともしばしば…。布団に入っても、先ほどまで書いていた字が浮かんでは消え、浮かんでは消え、ああすれば良かった、こうすれば良かったという思いがぐるぐると巡り、ぐっすり眠るなんてこととは縁遠い生活でした。そんな私を見て、「ももちゃん、早死にするよ?」と友人が本気で心配してくれました(笑)。確かにこの1ヶ月で口内炎ができたり、大きなニキビができたりしましたが、今こうしてブログを書けているので、まあ大丈夫ということでしょう!こんな無理ができるのも大学生までだと思っています。(何の宣言かは分かりませんが)卒業までにあといくらか、こんな1ヶ月を送ることになりそうです(目標は師範の昇試に合格すること!)。

さて、ここまでおじさんの不健康自慢のようなことをつらつらと書き連ねてしまいましたが、それ以上に昇試の作品制作を通して得られた学びと成長は大きかったと感じています。その中でも条幅作品の制作は難しくも、本当に楽しいものでした!

ところで、私は先ほどから「条幅」という言葉を使っていますが、何のことか分かりますか?条幅(じょうふく)とは、書き初めよりも大きなサイズの紙のことで、だいたい掛け軸ほどの大きさをイメージして頂ければと思います。(条幅は半切(はんせつ)と呼ぶこともあります)繰り返しになりますが、今回私は多くの方々が書いたことがある半紙の作品のほかに、2つの条幅作品の制作に励みました。では、同じ条幅に書かれたものでも、書体自由と臨書では何が異なるのでしょうか。この2つを比較してみましょう。

〈書体自由の作品〉

これは書体自由と言われるように、課題に対して自分の理解に基づいて、隷書・楷書・行書・草書など、どんな書体で書いても良い作品です。自分の理解とは、課題をどのように表現したいか、どのように自分の感性を落とし込むか明確にすること。つまり、日頃自身が抱えている思いや感情を紙面に吐露する、または放出させることができるものなのです。これこそが、書体自由作品の最大の魅力と言えるでしょう。自分の感情いかんで、岩に急流の水がぶつかってしぶきを上げるような激しい作品を書くこともできるし、かぐわしい花の香りがするような艶やかな作品にすることもできます(私はたまに、「激しすぎ、暴れすぎ」と釘を刺されることがありますが…(笑))。しかし、自分の感情を紙面に表出させるには、それなりの技術が必要になります。それを鍛えるものこそ、次に紹介する「臨書」なのです。

〈臨書の作品〉

臨書には様々なレベルがありますが、一貫しているのは古典を模写するということです。当たり前のことですが、古典を模写する際には、自分の感性を表立って押し出すということはありえません。無我の境地に至るか、あるいは古典の作者に思いを馳せながら書くのです。それは客観的な視点を養うことに繋がり、先人の書法を学ぶことで獲得する技術は、書体自由の作品で自身の感性や想像を表現する武器となります。また、臨書をするということは古典への理解を深めることでもあります。古典に思いを馳せるとき、その作品が書かれた時代背景や状況、作者に対して、深い理解を示すことが必要となります。つまり、ただ書いて技術を磨くのではなく、勉強することも重要だということです。

例えば、私が大好きで尊敬してやまない中国の書家・傅山(ふざん)。傅山は明末清初に活躍した文人で、明の崩壊後も遺民として、生涯にわたり清朝政府に抵抗の意志を示した人物です。たった少しの知識かもしれませんが、傅山がどのような人だったのか理解していると、彼の自由で放逸な筆致の中に、明の遺民としての毅然とした強さやムードを捉えることができます。

このように、臨書とは単なる古典の模写ではなく、客観的視点や新たな技術の獲得、古典理解などに繋がる「種」のようなものだということを、お分かりいただけたでしょうか。私自身の肌感覚の印象になってしまいますが、書道においてしっかりとした力を付けたいというときは、やはり臨書に勝るものはないと思います。ですから、1ヶ月を通して臨書作品に取り組むことができたこの度の昇試の経験は、自分の中で大きな学びの連続であったし、一回りも二回りも成長できた貴重な時間でした。

昇試の課題作品は大学の近くのポストから提出しました(私は通信で書道を習っているので、先生には毎回レターパックで作品を郵送しています)。包みを投函してから、「どうか受かりますように…」とポストの前で手を合わせ、ぶつぶつと念じていた姿を、友人に目撃されました(笑)。恥ずかしい…。でも、何だかんだ頑張った最後にオチがあるのは私らしい気がします!

昇試の結果は見事合格。それ以上は何も言うまい…。獲得できた準師範という位よりも、作品制作を通して得られた学びの方が、私にとって価値あるものだったと感じます。

書道は技術と感性の絶妙なバランスの上に成り立っている芸術。まるで高度な方程式です。技術だけが高くても、感性だけが磨かれても、良い書は書けません。そのことを胸に刻み、これからも書道の修練に励んでいきたいです!

久々に真面目なことを書いたら、とても長くなってしまいました!すみません!

本日もお付き合いいただきありがとうございました!それでは、また!