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パソコン作業をする時、椅子は低い方が良い。

 世はゴールデンウィーク、皆さんは今年何をされましたか。私は天気のいい日も暑くて半袖を着るような日も家にこもって卒論を書いておりました。腰肩首がありえないほど凝り固まり痛みも生じ悲鳴をあげていたので、絶対今週整骨院に行きます、今週の必須タスクです。
 卒論の話を始めるときっと私はずっとずっとしてしまうので程々にしておきますが、私の卒論、なかなか面白いぞと思って書いていました。まずテクストが面白くて先行研究や集めてきた資料も面白いので、まあそりゃ面白くなるしかないだろとは思いますが、私もその面白研究たちに参入するぞ〜という気持ちで書いております。何とか自分の手で面白いものを生み出したいという気合いだけは十分。でも結局自分が面白いと思えるか、興味を継続できるかって大事だと思うのでそういう意味では私は良い卒業研究ライフを送れているのかも。対象テクストにはおととし受けた講義で出会ったので感謝ですね~。
 卒論のはなしはほどほどにと言いつつ今回の更新は卒論に関係した内容になるんですが、私の研究しているテクストが『楢山節考』という棄老説話を下敷きに書かれた小説でして。これを初めて読んだ時、思わず私は自分の祖父母のことを考えました。小学校高学年まで私は曾祖母が二人存命だったのではっきり記憶があるお葬式は彼女らのものでした。曾祖母たちとは話したことはあったけれど、二人とも私が物心つく頃には徐々に認知症を患っていたようで、どんな方だったのかは両親や祖父母、親戚から聞く程度でした。その頃曾祖母たちやかわいがってくれた親戚の方が立て続けに亡くなりお葬式に出ました。生死の概念は分かっているのだけれど、それでも彼女らと一緒に生きた時間が短すぎて死の影響みたいなものがあんまり分からなかった。まあ小学生ってそういうものなんでしょうけど。自分の中で死は遠くて、でも大人が悲しんでいるのは伝わってきて、ぼんやりと死って怖いな~とか思ったような気がします。死生観って言葉がありますね、私のそれは非常に簡潔です。私は健康に300歳くらいまで生きたい。だってやりたいことも知りたいこともきりがないから。終わりがあると思うから人生を頑張れるのも分かるんですけどね。実際私は「今苦痛でもいつかこの先の自分にとっては意味あることになるんだろうな」と思いながら嫌なこと辛いこと乗り越えるタイプですし。ただ私はできるだけ元気に生き続けたいし、なんとなくできると思っている。いや、実際に300歳まで生きられないことは分かっているんですが、でも漠然と私はずっと生き続けることができるんじゃないかと思っている。それが若さなのかもしれないですね。そして私はそれを自分だけじゃなく両親や祖父母、家族、人類皆にも漠然とそう思っている。変わらずに続くものはないんだけれども、変わりながらも日常は続いていくと思っている。いやこれも分かっているんですよ、祖父母が身体の不調で手術を受けていることも病院に通っていることも。深層にある変わることへの恐怖を、変わらないと思いこむことで表に出さないようにしているんだろうななどと自分の心理を分析してみましょうか。変化って、怖ぇ~!と思う質なのでね。結局この手の話って限りあるものを大切にしようね~という結論に至りますが、まあそれに尽きますよね。私はできた人間には到底なれないが最低限どこか一部分だけでも人に誇れる人間でありたいと思うのって、私自身が家族や今まで関わってきた人間のことを大事に思っていて、人の顔に泥を塗るような人間にはなりたくないと感じているからだろうなと最近は思います。自分を大事にすることって人を大事にすることと直結すると思っているので。なんか今回、主題の重くて暗いテクストと向き合ってると自分の頭の中も暗くなっていくっていうのが手に取るようにわかる内容ですね。私という人間、影響を受けやすすぎる。
 テクストを読み込んで研究していく時、こういう感情の面は一旦置いておいて、あくまで論理的に何が言えるか考えるのが基本です。だから実際書いている途中はこういうことは頭にありません。でもこのテクストを研究しようと思ったきっかけは初読の感想で今回のブログに書いたようなことを思ったからですし、ちょっとキリがついた今なんかはこういうことを思い出すわけです。卒論を書く上で、テクストと向き合い先行研究と向き合い自分の論理的思考の部分と向き会う必要がありますが、感情の部分とも向き合って自己の在り方を見つめてしまうようなこのテクストはやはり面白いなと思います。少なくともあと七か月は卒論のことで日々頭を悩ませる生活が続きますが、これも限りあるものとして楽しんでいきたいです。では。