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肉体を帯びる言葉を探して

 映画を観る楽しみの一つに、セリフがあります。
 名セリフっていうやつです。出会えると、チョコボールで金のくちばしが当たったときのように興奮します。
 逆にそれを書くというのは至難の技。書きたくてもなかなか書けません。

 映画にはシナリオという本があります。
 演劇では「戯曲」といいます。
 映画を作る前ぼくは劇団を持ち、演出兼座付き作家を担当していたので、戯曲を書くことが仕事でした。

 故・井上ひさしさんは小説家で、劇作家でもありましたが、井上さんの描かれる世界は、年齢を問わず幅広い世代が楽しめる面白さと深い洞察があり、ぼくは大好きでした。自分が書く上でずいぶん井上戯曲を勉強に使わせてもらいました。
 また井上さんは遅筆で有名な方でした。本が間に合わず、公演延期ということも度々あったほど。本番の前日にやっと最後の原稿が上がってくるというのは当たり前だったそうで、一晩でそれにあわせた俳優さんも作家以上にすごい。

故・井上ひさしさん


 井上さんを見習ったわけではないけれど、ぼくも遅筆です。
 どうにも書けない。もともと文章力もなく、書くことは好きじゃない。
 それでも書かなきゃいけない。しかたがないので、稽古のたびにできた分の数ページづつを毎回渡すということになってしまいました。

 演じる役者も大変です。いったいどんな話なのかがわからないなかで、役作りがはじまるのですから。
 とにかく役者は数ページのセリフを覚え、稽古をし、そして次回にまた続きの数ページ。それを繰り返しはするけれど、本番初日は迫ってくる。ぼくもさすがにヤバイと焦り、徹夜をつづけてやっと最後まで書き上がるのが本番初日の10日ぐらい前。
 ところが、またここからが大波乱。
 全体が出来上がったところで、8割がたを書き換えてしまう。

 「えええええええ??!!」

 毎度、役者に怒られました。
 せっかく覚えたセリフがガラリと変わるだけでなく、シーンや流れさえもどんどん前後が入れ替わる。せっかく覚えた長いセリフもばっさりカット。途中には新しいセリフがあちこち細かく入る。
 役者が持っている台本はツギハギだらけ、巻物のようになっていきます。
 最低最悪な作家であり、演出家です。
 遅筆とはいえ井上さんの書き上がった原稿は完璧だった。
 今思えば、ぼくにつきあってくれた役者さんたちには申し訳ない気持ちでいっぱいです。
 けっきょく自分の力不足以外のなにものでもないわけですけれど、ぼくのなかにはどうしようもない衝動がうまれてしまうのです。

 稽古では都度、出来上がっているところまでを反復します。
 役者もはじめは渡されたばかりの台本ですから、ソロリソロリとセリフを口にし、動きを加えます。やがてそれらが身に入ると、セリフも役も役者自身、自分のカラダに馴染んできます。
 ぼくは演出として目の前で生きる肉体を見ているのですが、そのとき予想もしない声なき声が聞こえてくるのです。

 「(ちがう)!?」

 ぼくが戯曲に書いた言葉を、役者ではなく、その役そのものが

 「そうじゃないんだ!」

 と悲鳴をあげ始めるのです。
 その瞬間には同時に、その役が新しい言葉をぼくに教えてくれるのです。
 それはぼく自身では思いもつかなかったような言葉であったり、感情であったりする。
 そのうえ、どれもが生き生きしてる。
 ぼくはどうしてもその言葉に逆らえない。
 その言葉しかないのです。
 だから、変える。書き換える。
 つまりぼくは、

 『自分が書いたのではなく、役者に書かせてもらった』

 としかいいようがないのです。

 シナリオにしろ、戯曲にしろ作家の方々には、書いた本の一語一句、句読点さえも変えるな、という方も多いと聞きます。
 もちろんその作品世界は完璧にできあがっているので、俳優がしゃべりにくいからと変えることはできないでしょう。俳優さんもだからこその役作り、演技なのだとは思います。
 でも力のないぼくには、それができなかった。
 自分が机上で書き上げた言葉より、生の、生きた肉体を持つ俳優という人間の発するものの魅力に勝てませんでした。
 なにより、それを掴まえられたときの役者の存在が好きだった。
 そうして動きはじめた人物が、舞台上でぶつかり合う葛藤を生み出し、作者であるぼく自身も奥に隠れていたテーマを発見できたのです。
 だから、物語の途中は破綻する。
 それをなんとか修正する。
 本番の初日まで、その格闘を続け、公演によっては初日以降もセリフや動きを変え続けざるを得なかったのです。
 しかし、創作とは発見することなんだ、と知ったのです。

 この経験は、シナリオを書くときに生きました。
 シナリオの場合、さすがに未完成のまま撮影に入ることはできません。
 さらに劇団のときとは違い、書くときには俳優さんは決まっていません。
 これまで「俳優さんに書かせてもらった」ぼくは、この人が演じてくれたらいいなあ、という想定をつくり、その方の顔写真を目の前の壁に貼って、役を書いていました。
 しかし戯曲とシナリオは似て非なるもの。

 極端にいえば、演劇、舞台は「言葉の芸術」。

 映画は「行為、行動」が表現のコア。

 戯曲を書いていたぼくのシナリオは、まだまだ言葉が多い。
 それが反省で、一番の課題です。

 数か月前から取り組んでいる新しい企画ありまして。面白いという自信はあるんですけど、どうにも人物が動き出さない。
 それが苦しくて、苦しくて。
 ま、いままで楽に書けたことは一度もないんですけれどね。

 舞台は残らないけれど、映画は残る。
 ぼくの書いたオリジナル作品です。
 よかったら、予告編だけでも御覧ください。
 お暇な時にでも。


(2017年3月4日記)

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