メガネをかけて、外へ。
「井上、お前メガネしてないんだな。」
「はい。だって、見る必要のあるものってあんまり無いじゃないですか。」
「まあ、確かにそうかもな。」
高校2年生の時だったか。
職員室前の廊下、数学の藁谷先生としたこんな会話を覚えている。
授業中はメガネ姿にも関わらず、廊下ですれ違う時にはメガネを外していた自分が、先生の目には不思議に映ったのかもしれない。
今思えば、自分の回答はとってもひねくれている。
でも、当時の自分にとってメガネを外す事は、視力を0.3以下にあえて落とすことは、小さな世界を生き抜く術でもあった。
その頃は、できれば何も見たく無かった。
見えてしまうことが、怖いことだった。
自分以外のクラスメイトの談笑が、休み時間の残りが、あるいは教室の隅に貼ってある知らない名前だらけの「成績優秀者」の表が。
視界のスイッチを切って、イヤホンを耳に差し込む。
自分だけの世界に浸ることが、心を穏やかに保つためには必要な事だった。
でもそれは、17歳の自分が高校、あるいは教室という小さな小さなコミュニティの中で生きていたからかもしれない、と最近は思う。
自分にとってその時「世界」は家から50分かけて通うその高校の中にしかなかった。くぐもった空気と体育の後の汗の匂いの教室にしか、自分の世界は無かった。そこで感じるやるせない無力感や劣等感が、いつも自分の感情を支配していた。
仕方のないことだけれど、それが自分を閉ざしてしまっていたのだと思う。
でも、今は違う。
大学生になって、自分の周りの世界は広がった。
オンラインでも何とか繋がりあうことができた大学のクラスメイトや先輩、すっごく指示が適当だけど伸び伸びやらせてもらえた塾のアルバイト、そして大学2年生の時に入ったWACODES。
魅力的な人と出会い、話すたび、自分の中で凍っていた社交性が溶け出してきたような気がした。
たくさん話したい、たくさん聞きたい、もっとたくさんの時間を共有したい。
そんなことばかり思うようになった。
気づけばいつの間にか、周りには見たいもの、知りたいものだらけになっている。
17歳の自分が聞いたら驚くかもしれない。
メガネをかけて、コンタクトをつけて、視界を明るくする。
たったこれだけのことだけれど、自分の内側の成長を感じている。
<ここで一曲>
ちょっとずつでも前に進めていれば、それで良いよね。
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