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小山田咲子さんに出会った

コロナ第六波が収まってきたので、友達RとKと福岡に行くことになった。社会人になってから、この二人とはたまにホカンスに出かける。

ちょうど一年前にはこの二人と静岡に出かけていた。たまたま、川端康成の伊豆の踊り子を図書館で読んだあとだった。河津駅を降りてすぐ、バスターミナルの端に伊豆の踊り子像があってここが舞台だったと知った。

思いがけない聖地巡礼。旅行学的にいうと、コンテンツ・ツーリズムというらしい。

小説を読んでからその土地に行くと、初めて訪れるのにどこか見慣れた感覚があってうれしい。 今自分はあの主人公と同じ地に足をつけ、同じ景色を見ているのだ。私を取り囲む景色の外側にも、違う見え方をする世界があることを、改めて感じることができる。

さて、福岡。
修学旅行は京都と沖縄だったし、親戚が四国より西側にいないので、今まで九州に足を伸ばす機会が無かった。旅行の1週間前、ふと今まで縁のなかった九州・福岡を知っておこうと思い、福岡が舞台の小説とか映画は何かなと検索した。

その中にこんな本の紹介文があった。

これは、一人の才能溢れる女性の見事な作品集です。こんなに楽しくて、勇気をくれて、考えさせられて、深いブログ日記を僕は他に知りません。あなたが小山田咲子さんを知っているのなら、この本で彼女の才能を改めて確認して下さい。そして、あなたが小山田咲子さんを知らないのなら、この本でその才能と出会って下さい。

鴻上尚史(作家・演出家) 序文「小山田咲子さんのこと」より

この本は東京にいる大学時代に書かれたものなんだけど、彼女の出身が福岡らしい。ちょっと読んでみたくなって、地元の図書館の蔵書検索したけどヒットせず、自由が丘のブックファーストにもなくって、諦めるかと思ったけどそれでもなんだか後ろ髪が引かれたようで取り寄せしてもらった。

彼女は24歳にして亡くなったと、冒頭に書いてあった。亡くなった人の作品って生きている人のものより価値が高く見えることがあるが、それはもう絶対に出会うことができないという決定的な距離の遠さが切なくて、本物らしく仕立てているのではないかと思っている。

でも、まだ生きているか亡くなったかなんて忘れてしまうくらい、このブログに没頭した。出会えて良かった、心からそう思った。私はもうすぐ、彼女が生きた年月より長く生きることになる。

以下、引用

年上の人間が年下の人間に、ただ「知らない」という理由だけで自分がちょっと垣間見た世の中の複雑さや辛さを見せようとするのは罪だと思う。「誰もが通る道」という言葉は正しいようで正しくない。それぞれが、それぞれの道をそれぞれの悩み方で悩みながら歩くしかない。
できるのはただ、道の途中で息を切らし気味の人にその時は楽しく歩いている人が給水所のありかとか景色の良い場所をちょっと教えてあげることくらいか。「この先さらに坂」とか言われたら歩く気も失せてしまう。

ああ私の抱えているものなんて小さい小さい、と思える瞬間がいくつかあれば、生活はめちゃくちゃ救われる。

私はよく父に「子どもは気楽でいいよな、大人は大変だぞ」なんて言われてきたが、そんなことを子どもに言って何になるというのだ。
無責任でいられる子どもは、子どもなりに辛いことがあって大変さや感情の振れ幅が小さいわけでは決してない。
大人は大変だから子どもも早く大変になりなさいとは父も思ってはいないだろうが、例えば恋に夢中の恋人たちにいつかは醒めると言うのはやっぱり違う。その年齢なりの蜜がある。いつか醒めるから恋なんてするものではない、とは言えないでしょう。

残りのページが少なくなっていくのが惜しくて、大事に大事に読んだ。福岡の描写がほとんどなくて、当初思い描いていたコンテンツツーリズムにはならなかったけど、福岡の旅以上に心が満たされた読書だった。

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