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敗者の美学

昨日、ボクシングの村田諒太選手とゲンナジー・ゴロフキン選手の世界戦を配信で視聴した。
これまでボクシングの試合はほとんど観たことがなかった。だがミーハーな私は、メディアの「日本ボクシング史上最大のビッグマッチ」という煽りに見事に釣られ視聴することに決めた。もっとも、そうさせたのは最近趣味で始めたキックボクシングの影響も大きい。格闘技はいざ始めてみるととても面白く、その奥深さにハマりつつあったのだ。
とはいえ格闘技に関してド素人の私は、ミドル級で日本人が戦う難しさをあまりわかっていなかった。それでも、ゴロフキン選手が超人的な強さを持ち、下馬評は有利であることくらいは理解していた。
だがいざ試合が始まると、両者の戦いは予想以上に拮抗した。一時は村田選手が勝てるのではないかとも思えるほど、それは白熱した内容だった。結果的にはTKO負けしてしまったが、解説やSNSどれを通しても両者を褒め讃えるコメントが多かったように思う。

村田選手は素晴らしい戦いを観客と視聴者に魅せ、負けはしたものの人々に感動と爽快な気持ちを与えてくれた。
まさにグッドルーザーだろう、と私は思った。
日本人の中には負けた人間の側に感情を入れ込む人も少なくない。それは日々の苦悩や逆境に自分を重ね合わせ、応援したくなるからなのかもしれない。
だから、敗者の美学という言葉が存在するのだろう。勝者には決して与えることのできない美しさが確かにあるのだ。
だが残念なことに、勝敗がつく物事というのはすべからく勝者のみが歴史に残るのもまた事実だ。ビジネスも受験もスポーツも、例外なく全てである。敗者が残した軌跡は、歴史の一通過点にしかならない。
この試合は日本ボクシング史に間違いなく残るものだろう。だが未来の世界のボクシング愛好家達から見た時には、ゴロフキン選手の戦歴の一つとしてしか残らないのだろうか。もしそうだとしたら、アスリート、とりわけプロの世界は残酷なものであるとも思えてしまう。

だが同時に私は、この出来事からは別の見方もできると感じた。
人間の歴史は「負けの歴史」でもあると思う。一つの出来事、一人の個人を見れば負けて終わったのかもしれないが、それらは必ず次に繋がっている。勝負の世界で結果が重要視されるのは当然だが、一方でむしろ大事なのはそのプロセスともいえると思うのだ。
ある会社が敗者として歴史に消えていっても、そのノウハウを活かして別の会社が新たなイノベーションを起こすかもしれない。ある人が受験に失敗したとしても、その人はその後の人生で他者に寛容になれるかもしれない。
歴史は表面しかなぞらないが、プロセスもその影に隠れてしっかりと後世に続いていく。
村田選手が今後現役を続けるのかは誰にもわからない。次にいつ、日本人ミドル級スターが現れるのかもわからない。だがこの試合は先の未来に、小さくない影響をもたらす出来事になったと思う。その未来とは村田選手自身なのか、彼を観た後輩なのか。はたまた、まだ生まれていない誰かなのか。

先述したが、私はボクシングに関してド素人で技術的なことに関して無知だ。だが昨日の試合を経て、村田選手の努力や覚悟は間違いなく、別の形で先に続いていくのだろうと思えた。そして同時に、新たな歴史が生まれる未来がとても楽しみになっていた。
その未来が、勝利になるのか敗北になるのかはその時にならないとわからない。だがどうなろうとも、100か0かで片付けられるものでないことだけは確かである。
なぜなら、歴史はまた紡がれていくからだ。

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