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誰何の事-寛容と不寛容-

江戸柳生系合気柔術には「誰何(すいか)之事」という口伝があります。鶴山先生が強調していた口伝の一つです。これは、相手を制圧した後、極め打ち(止めを差す)する前に「誰何せよ!(問いただせ)」という教えです。自分への襲撃は、人違いだったかも知れない、何かの勘違いがあったのかも知れない、例え攻撃の意志はあったにせよ改心するかも知れない、だから、状況を確認して許す心を持ちなさい、という寛容の精神なのです。
人間が持つ暴力性(復讐心と支配願望)を合理性や自制心で封じる教えともいえます。

さて、昨今、日本の幸福度の低さ、閉塞感、住みにくさなどが指摘されています。様々な要因がからんでいる問題ですが、不寛容もその一因であると思います。自分に不快なものを排除しようとする、これも人間の本性の一つでしょうから暴力性と似た側面があります。卑近な例では、公園などでみかける仕切りをつけたベンチ、長時間座れないよう工夫された椅子、オブジェ化された座れない椅子(このようなものは「排除アート」と呼ばれています)、さらにはベンチや遊具の撤去へ・・・。建前では安全・安心を確保するための必要な措置、とでもいうのでしょうが、その目的はベンチをベッド代わりにするホームレスの排除、たむろする者の排除にあるのでしょう。コロナ渦の現在、仕切りの付いたベンチは時代に即した面もあるかも知れませんが、その本質が排除にあるとすれば、残念なことです。いろいろな場所から消えていくベンチ、高齢者や病人、体が不自由な方がちょっと休むということもできなくなっています。このような不寛容は真綿で自分たちの首を絞めることになると思われます。

誰何によって、相手を解放した後、再び攻撃される可能性もありますから残心を忘れてはいけません。その前に、相手を制圧する実力と、心の余裕がなければ、誰何も何もありませんから、寛容であるためには不断の努力が必要、ということでしょう。

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