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合気評論21

盛平翁は終戦まで、『武道練習』と『武道』という和綴じの図解説明書を作成し師範用として使っていました。戦後においては、各師範は技術論よりも宗教論を優先して研究しているので、戦前の師範と比較すると技術的には数段下回ったものと見受けられます。演武会などで公表される技も減っているようです。
戦後の植芝門下の師範たちは、吉祥丸氏が著した『合気道』に理論的根拠を求め、ただ一つの頼みとしているようです。参考のため、その一文をここに抜書きしてみます。

「私(盛平翁のこと)は、15歳のころから武道に志し、諸国の剣道・柔道の師を歴訪した。そしてどの流儀も二、三か月でその極意を会得してしまった。

(注:著者(鶴山先生)の見解では、“どの流儀”についてはオーバー過ぎ、二、三か月の修業で奥義を会得できるものではないが、盛平翁の場合は系統的に同種の流儀の派を追ったことから、技の極意も同様なものと解した、ということであろう。)

しかし、自分の意に満つるような武道の真髄を伝授してくれた人は一人もいなかった。そこで、数々の宗教の門をたたいたが、ここでも具体的な答えは得られなかった。

(著者注:大正8年(36歳)「チチキトクスグカエレ」の電報により、父の病を救おうとの動機から入信し、事後、大本教だけを信じてきたことは既成の事実であります。それ以前は、7歳のとき真言宗、10歳のときの参禅などは子ども時代、両親のいいなりに過ごしたもので、本来の自由意志で思索するほどの年齢ではありませんでした。)

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