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柳生宗矩一万石(下)

石高の話にもどるが、柳生の庄はもともと三千石程度といわれていた。論功行賞で二千石、他諸侯とのバランス上こうなったのであろう。そこで兵法指南役就任を理由に一千石、これで旧領を回復したのであった。その後の加増は宗矩個人の功績であったから「我が一万石は死後返還する。」との遺言していた。自分の子どもたちにはそれなりの実力がついた折り、相応の禄高をあげてもらいたいとの趣旨であった。家光は十兵衛三厳と宗冬に分知したが、十兵衛の早世にともない宗冬は自身の知行を返還するとともに、十兵衛から家督と遺領を継いだのであった。
さて、生まれながらの将軍といわれた家光は若いころ男色を好むワガママな人物だった。幕府の職制の確立と体制の整備が整いつつあった時代、宗矩がなした家光教育「江戸柳生の心法」とは何だったのか。これは「自分の気持ちを自己コントロールする」勉強法であった。暴力は感情のまま自分の気持ちをコントロールできない人がすることで、将軍の地位はあらゆる暴力が許される立場である。しかし、自分の感情のおもむくままに暴力を振るえば、必ず革命が起こる。家康公の「勝つことを自制する」という考え方を将軍御指南役として技法を通じて、講義と書伝で伝えたのだ。将軍の家臣としてではなく新陰流兵法その理想を治国のために家光に伝える役割を演じきったのである。

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