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合気評論15

以上の盛平氏が修得した各流派の特長を活かした技は、現在の植芝道場の技法の中では、完全に姿を消しその面影も見られません。唯一、大東流合気柔術の一部がそのまま使われているのであります。

前項でも述べたとおり、戦争中、大日本武徳会の全国武道界の統制に際して柔道部に編入されました。そのとき、合気武道から合気道と名称を改めました。戦後の合気道復活については、占領下の武道禁止令にあって、「武道ではないもの」として文部省から認可を受けたのです。ここに合気道は生まれ変わり再出発をしたのです。(補足説明:note『「武道」では、なくなった合気道』記事を参照してください。)

盛平翁の壮年時代の門下生は、真の合気武道はこちらが本流とばかり、続々と別派が立てられていきました。終戦を基準に、戦後派の集まりである現在の植芝道場の師範は、完全に伝統ある正しい技術から離れてしまった、といえるでしょう。藤平光一氏がハワイで考案したラジオ体操化した合気道に変えられつつあったのです。

終戦時の盛平翁は62歳であったことからして、その後の公開演武が行われたころ(70代後半)は、技術的には過去の人となっていました。(当時の平均余命は60歳ぐらいでしたから、武道家の最高実力は40~50歳代とされ、60歳を過ぎると体力的な衰えが著しく壮年時代期に比べ大きな差が生じてくるのです。)盛りを過ぎた盛平翁と人一倍の信者であり精神異常を思わせるまでの朝夕神に祈りを捧げる狂信的な盛平翁の指導を受けて育った弟子たちであるのが、戦後派の特長であります。


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