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「武道」では、なくなった合気道

終戦後、武道はGHQ(連合国軍最高司令官総司令部)により全面禁止(昭和25年以降順次解禁)となりました。文部省は昭和20年11月に「武道の取り扱いに関する件」(発体80号)を通知し、学校武道の正課での取り扱いはもちろん課外活動までも禁止しました。さらにCIS(民間諜報局)により、大日本武徳会も依然として 軍国主義的団体であるとされ、昭和21年10月に解散させられました。

財団法人皇武会も同様に昭和20年11月22日に終焉を迎えました。その際、凍結された皇武会の財産を承継(払い下げ)するために、寄附行為変更許可願申請書が文部省体育局長あてに提出され、昭和23年2月9日付けで財団法人合気会が合気道を普及する団体として文部省から認可されたのでした。

申請書は藤田欽哉氏が作成したもので、第1章合気道、第2章合気会、今日までの経過、第3章将来の計画、から構成されています。
この中で、合気道の定義として「合気道は、大自然界の生物相互愛の雰囲気にのっとって・・・天地に融合する心身の保健、加害に対する護身の技術であります。・・・合気道は一種の舞楽道と健康道とを兼ね備えた遊技ともなり、体育でもあり・・・活動力の源泉を要請するものであります。・・・」「技は愛の実行面の正義の標示でもあり・・・人間愛を護るべき技であって、愛なくして何の技かや・・・合気という言葉は愛気と語音も相同じく、その意も相通ずるのであいます。」とあり「武道ではないもの」として文部省から認可されたのです。鶴山先生曰く「当身のない合気道」が誕生したのです。

このような主張は、武道が禁止された中、経済的に困窮を窮めたこの時代を乗り切るための単なる方便だと主張される方も多いでしょう、しかしながら、この考え方は、定款どおりの実行者であった藤平光一氏や植芝植芝吉祥丸氏の技に反映しており、戦前の技法とは一線を画すことになったのです。
現在の定款が変更されているかどうか、筆者は存じませんが、「上記の定義」から始まっている合気会系合気道は、独自の道を歩み始めたのでした。このことを鶴山先生は、図解コーチ合気道において、植芝合気道には戦前派と戦後派があると分析したのでした。
なお、農事とは、農作業のことで植芝盛平は太平洋戦争(昭和17年)中に茨城県岩間に疎開、当時の食糧事情から農耕に従事し、その傍ら合気柔術の鍛錬をすることを武産合気(たけむすあいき)と称していました。(総合武術合気会の会報を参考に作成)

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