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日本経済新聞「春秋」に取り上げられた合気道13

そして、後重(ごじゅう:仕上げの段階)では、病気をなくそうと思う心を持たないことが、病気をなくすことになるのである。病気をなくそうと思うこと自体が病気なのだから、病気の状態をそのまま受け入れ、その中に身をおいていれば病気をなくしたのと同じことになる。それなら、病気が心の内にあるままの状態であって、何の利益もないではないか、と問われるだろう。だから、修行の段階を二段階とし、初重の境地に達すれば、心の病を取り去ろうと思わなくても自然とその思いすらなくなるのである。病気とは「着」であって、仏法ではこれを嫌う。着を離れるべく修行しなければならない。

磨かない原石には塵やほこりがつくが、磨かれた玉は泥の中にいれてもけがれない。心の玉を磨いて病気のことなど気にかけず心を自由に放つべきである。

「平常心これ道」という言葉がある。平生の喫茶喫飯(日常のあるゆる行為を一つ一つ丁寧に行う事)がすべての道と一体になり、悟りそのものである、ということだが、これは様々な道に共通する真理である。世間のことにあてはめていえば、

弓を射る人は、弓を射るという思いがあると弓矢のねらいが乱れてしまう、だからその意識を忘れて何もしない普段のままの心で弓を射れば弓が定まるであろう。同様に、太刀を使うにも、馬に乗るにも、物を書くにも、琴を弾くにも、それらのことは一切意識せずに普段のありのままの心で行えばすべてのことは、たやすくすらすらと出来るのである。

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