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柳生宗矩一族と松平信綱1

今回の鶴山先生のメモの内容確認作業の中で面白いことが判りました。
柳生十兵衛三厳が徳川家光の勘気を被ったことは有名ですが、松平信綱とその養父(正綱)も家光の勘助を被っていました。信綱は寛永11(1634)年5月ごろ家光の勘気「信綱公御前不快」を被り、同年6月の上洛の際、当時老中格であるにもかかわらず、徒歩での供をさせられています。上洛途中、信綱の騎馬法の指揮を見て家光の勘気が解けたとありました。
今回は、宗矩一族と信綱の関係についての読み物です。
 
柳生宗矩の門人の内、剣術家として全く表面に出てこない達人がいた。それは知恵伊豆こと松平信綱である。信綱は徳川家光誕生(1604年)とともにその小姓として召され、生涯家光に仕えたのである。当時、8歳であった。家光が新陰流兵法を習う際は、稽古相手として同じように学び英才教育を受けていたのである。
補足説明:宗矩が家光の兵法師範となったのは、元和7(1621)年で寛永6(1629)家光26歳の時新陰流兵法印可の書を献じています。おそらく、宗矩門下の誰かが家光が10歳過ぎごろから指導していたのでしょう。

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