伊賀と甲賀3
さて、武田信玄の家臣に軍師として有名な山本勘助という者がいた。この山本勘助(勘介)は『甲斐国史(1814年完成)』の中で「一本系図に勘介先の駿州の源氏吉野冠者の後胤(こういん)(鎮守将軍源満政の末裔)」とある。
富士郡山本村(富士宮市山本)にいた吉野茂兵衛という者のことが天文永禄(16世紀)のころの今川家の文書に残っている。それによると、勘助の曾祖父に当たる吉野浄雲入道貞倫(さだとも)は山本村に住んでいて、八幡宮の祝戸(はらいと=祝詞を唱える役=神主)であった。彼の二男弾正貞久は今川家に仕官して功績を上げた。兜の前立てには八幡の神号を彫り、家門は三巴であった。所領は山本の三沢・石宮・三州(三河)加茂にあった。弾正貞久は文明10(1478)年三河で戦死した。彼には男子数人がいたが、4男の貞幸が12歳のとき三河の国牛窪牧野の馬允(うまのじょう)の家令大林勘左衛門の養子となり改名して勘助となった。22歳のとき故あって養家を辞した。その後諸州を30余年遍歴し、武田家に仕えた。諱(いみな)を晴幸といった52歳であった。
『山本勘助晴幸屋敷跡』説明文によると…
「三河国牛窪出身の牢人で、諸国を遍歴し兵法や築城術を会得したが、隻眼となり、片足も不自由になったという。天文5年(1536)に、駿河国今川義元に仕官しようとするが、実現しなかった。天文12年(1543)、勘助の噂を聞きつけた板垣信方の推薦で、信玄に召し抱えられ、後に足軽大将(50人)となる。戸石城攻防戦などの合戦で、目覚ましい活躍をし、武田家中では、軍神摩利支天のようだと称えられた。内政、軍略、築城術に関する信玄の諮問に答え、さまざまな意見を具申する軍師として、重用された。」とある。30余年にわたる諸国遍歴により各地の情報に通じる諜報通になっていたのである。
この山本勘助が最初に書物の中に現われるのは『甲陽軍鑑』であり、『甲斐国史』はこれに加筆したものであろう。『甲陽軍鑑』は甲州流兵法の原典とされている。信玄に仕えた武田氏の重臣であった高坂弾正昌信が記録したものを江戸時代になって徳川家康に仕えた小幡景憲がまとめ、その弟子達が筆写して流布したものである。
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