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大東流の名称の由来(下)

大塔宮は、正成から再挙の準備が出来たとの連絡を受け、翌年吉野金峰山に入った。ここでも多勢に無勢奮戦するも適わず、またも落ち延びることに。この時、部下の村上義光が身代わりになるといって、大塔宮の鎧兜を身につけ木戸の高櫓(やぐら)にかけ上がり「我こそは大塔宮親王護良なり、なんじら逆臣共が武運尽きたるときの手本にせよ。」と呼ばわるや、腹一文字にかき斬ってはらわたをつかみ出し敵方に投げた。
その後、後醍醐天皇は配流(はいる=島流し)先の隠岐島から脱出し倒幕の号令をかけた。命を受けた新田義貞が元弘3(1332)年5月に鎌倉幕府を亡ぼした。翌6月には、後醍醐天皇親政(建武の新政)下、大塔宮は征夷大将軍に任じられるが、足利尊氏暗殺計画を口実に後醍醐天皇から裏切られ、捕まり幽閉後、鎌倉で殺された。

保科近悳(西郷頼母)が第2代宮司を務めた霊山神社(りょうぜんじんじゃ)は、建武の新政以降、陸奥の鎮定にあたり、南朝に従った北畠親房らを祭神としている。武田惣角はここの社務所で保科近悳に会った。惣角はここで近悳から、会津藩の保科家の霊山神社の由来など聞か(教育)されたのである。その中には、大塔宮の話もあったに違いない。征夷大将軍であった大塔宮の守護を得たかったのである。

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