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戊辰の年の年賀状7-江戸柳生と鶴山先生-

ここで、簡単に新陰流兵法の歴史に触れておきます。
流祖は、上泉伊勢守-柳生石舟斎宗厳から江戸柳生家と尾張柳生家に分かれます。

江戸柳生家の初代は五男宗矩、その後、宗冬の孫である5代俊方をもって血筋が絶え、以下養子が家督を継いで大名として明治を迎えます。尾張柳生家の初代は石舟斎の孫兵庫助利厳、血筋は代々続き、11代厳周(としちか)の時、明治時代に入ります。

江戸柳生は、尾張柳生と違って刀法の改変がなされなかったことから、基本介者剣術(いわゆる本伝)を継承していました。しかしながら、幕末の紫ちりめん事件により、ほぼ失伝してしまいました。なお、『柳生流兵法と道統(柳生流兵法道場碧榕館)』によると、尾張柳生家側からの評価は「このころ(寛政4(1792)年)の江戸柳生氏(8代俊則)の流風已に萎微低下の風あり。甲冑武者斬合の道の偏りに泥み(なずみ:執心すること)、宗矩、三厳の独創以来これを顕彰し祖述する中興の宗師あらざりしをもって、いわゆる、かた剣術の弊風に染みたり。」(同書74頁)とあります。

一方、尾張柳生家では、同時期6代道機斎厳春が、3代連也斎厳包(としかね)が既述し摩利支尊天像とともに密封されていた「新陰流兵法口伝書内伝」を開封し道統を復興させました。その弟子の長岡房成(桃嶺)も流祖以来の勢法を集大成するとともに、外伝「試合勢法」を考案するなど、「顕彰し祖述する中興の宗師」が現われたのです。


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