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大坪指方先生のこと8

江戸柳生家のこと
柳生藩(柳生家)は石舟斎宗厳が8代目で、その五男又右衛門宗矩が9代目を継ぐと共に江戸柳生家初代となりました。以後、柳生藩主は江戸柳生家当主がこれにあたりますが、宗矩の血統は江戸柳生5代(藩主13代)俊方をもって絶え、以降養子が継ぎ明治に至ります。

「柳生新陰流 兵法一族の流れ」 大坪指方筆には、
「江戸柳生家も代々大名、旗本に新陰流を伝え、時折、その伝書を見る事があるけれど、幕末の紫ちりめん事件なるお家騒動(実は佐幕勤王また保守改新の争い)で、伝承してきた江戸の刀法の達人は改新派に殺されたが、旧子爵家にわずかに遺物、伝書、書物類が残った。」とあります。

この紫ちりめん騒動とは、江戸藩邸の佐幕派(幕府政策を擁護する勢力)を国家老以下国元の勤王派(反幕府、天皇親政を実現しようとした勢力)が粛正した内紛でした。大政奉還後、21代(江戸13代)藩主柳生俊益(明治4年「俊郎」に改名、明治17年に子爵)以下、江戸詰藩士達は柳生へ帰国しましたが、佐幕派だった江戸詰藩士達と、勤王派だった国元藩士達は思想の違いから、対立しました。当初、江戸詰藩士達が国元藩士達を排除しようとしたようですが、これを察知した国元藩士達が藩主に随行していた江戸詰藩士を一人ずつ呼び出し監禁・拷問しました。江戸家老は切腹に追い込まれ、佐幕派の10名近くが殺された事件でした。これにより藩主も勤王に転向しました。なお、紫ちりめん騒動(事件)という名称は、柳生新陰流では戦のとき、刀についた血糊を拭うため、紫ちりめんの布を鍔にくくり付けていたとのことで、江戸詰藩士達が「紫ちりめんを用いる(斬る)」という合い言葉を使っていたことから、このように呼ばれたとのことです。

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