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再び柳生流躰術について6-柳生十兵衛三厳-

○十兵衛は殿中(屋内)用の無刀取り(対小太刀)と野外用の無刀取りを研究していたようだ、これは合気杖そのものである。柳生の里では十兵衛は太刀を帯びず杖(柳生杖)を携行していたようだ。

○尾張柳生家にも当然体術があったが失伝している。制剛流柔術である。格調の高いものであったらしいが、小具足であったことから、剣術とはかみ合わず、江戸柳生のような体術との融合はなされなかった。ところで、尾張柳生家では柳生流という言葉は用いない。「柳生新陰流」という流儀名もない。このことは柳生厳長氏の『正伝新陰流』ではっきり主張されている。その門人であった渡辺忠敏先生も語っていた。

○柳生流という名称が出てくるのは地方であった。宗矩自身はその伝書等で「新陰流」と称しており全国に門人を派遣広めた。地方では将軍の剣の流儀を公然と名乗ることは許されず柳生流と呼んだのであろう。

○十兵衛の研究は、旧南朝の家臣とその末裔を中心に行われたらしい。北朝系の源氏しか武将になれず、南朝関係者には武器狩り(槍・太刀・長刀)が行われた。この武器狩りが徹底するのは豊臣・徳川時代に入ってからである。徳川時代には山伏まで管理された。このような時代背景の中、素手で武器(太刀)に対処する技術の再研究がなされたのだ。

○研究を終え、既に赦免されていた十兵衛は江戸に戻り、再仕官もつかの間、退官し指導に徹したようだが、残念なことに、家督を継いでわずか3年後急逝した。


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