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伊賀と甲賀2

甲賀組・伊賀組というと諜報となるが…
いわゆる忍者は戦国時代に活躍していた。武田信玄は「足長坊主」と言われたほど諸国の動静に通じていた。諜報機関が発達していたということだ。この組織を家康が引き継いだのである。
譜代の彦根藩(井伊家)では、伊賀組を使っていたため、伊賀町(彦根市錦町)の町名が残っている。会津藩には、甲賀町があった、保科正之の時代からである。四代将軍の補佐役をしていたことが関係していると思われる。

『武家名目抄(江戸時代後期、幕府の命により塙保己一(はなわほきいち)らによって編さんされた有職故実の書)』によると…
忍者は間諜であって、間者・諜者ともいい、その役目は敵国に潜行して形勢を察し、敵中に随従して間隙を窺い、敵城内で火を放ち、また刺客となることであった。もちろん諜報活動はこれらの一端である。伊賀の国や甲賀の地は地侍が多く、応仁の乱以降常に戦争を行なっていた、盗賊・強盗(取り締まりや警戒を掻い潜る技術を持つ)も多く、また間諜の術に長けた者も多かったことから大名諸家がかの地侍を養い置いて忍の役割を担わせたため、伊賀者・甲賀者と呼ばれる者が諸国に広まったのである。
いわゆる忍者には、透波(すっぱ)・乱波(らっぱ)・かまり・草…など多くの呼称がある。
 透波とは、言動に一貫性のない者、いわば嘘つきに由来し、
 乱波とは、騒がしく動き回り、敵を攪乱する者、
 かまりとは、敵地に踞(うずくま)ることで、敵情の偵察をする者、
 とは、藪や草むらに身を隠し、同じく敵情の偵察をする者
をいうのである。
彼らの出目は、庶民から徴用された者(少数)と野武士・強盗の中から見いだされた者(多数)のいずれかであった。

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