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大東流の名称の由来(上)

大東流の名称の由来に関する鶴山先生のメモです。会津藩でとりまとめられた「無名の武道」その名称をどうするかは、その後の武田惣角の活動に大きな影響を与えるものでした。博識の西郷頼母はいろいろな伝説をつけ加えて箔を付け惣角の活動を支えることにしたのでした。このメモによる説は、鶴山先生の記載にもありますが語呂合わせ程度のものでしょう。しかしながら、霊山神社(りょうぜんじんじゃ)の由来からこんな話を引っぱってこれる、鶴山先生も相当な博識です。

大東流の名称の由来の一つに大東圏思想がある。これは私(鶴山先生)が昭和46年発行の図解コーチ合気道で始めて世間に公表した。別に、未公開の説がある、言葉合わせに過ぎないかも知れないが、ダイトウという言葉を発想する参考になったと思う。
それは、後醍醐天皇の息子であった大塔宮(だいとうのみや)の悲劇の物語である。

大塔宮とは、後醍醐天皇第一皇子(第三との説も)、護良(もりよし)親王をいう。 幼少期から仏門に入り天台座手を務めていたが、元弘の乱(1331年)から後醍醐天皇(南朝)のもと鎌倉幕府討幕運動の中心人物となっていた。
楠木正成とともに戦った大塔宮。赤城城において釣塀(つりべい)作戦や熱湯作戦で奮戦するが兵糧攻に持ち込まれ、笠置城が落ち後醍醐天皇が捉えられたことから、再挙を期して赤城城に火を放ち脱出した。一時奈良の般若寺に隠れたとき、興福寺の僧兵に襲われ大般若経の唐櫃(からびつ:箱のこと)に入って難を逃れた話がある。その後、熊野山伏に身をやつし落ちのび、元弘2(1331)年11月に還俗して護良親王と名乗った。


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