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大東流と瞑想との関係2

瞑想のやり過ぎにも問題があると思う。というのは、瞑想を連続して続けることは半覚醒の状態の中で「実際の体験が想像か区別をせず、すべてを事実であるかの如くそのイメージを受け取ってしまう」このことは良い場合と、悪い場合が起きるからである。
例えば、白隠禅師の手記「夜船閑話」によれば「往々に参窮(さんきゅう)度が過ぎ清苦(せいく)節を失するやからには、肺金いたみかじけ、水分枯渇して疝癖塊痛(せんぺきかいつう)、難治の重症を発せんとす」と記され、当時の修行者が参禅をやり過ぎ、苦しみから重病人になってしまう(禅病のこと)ありさまが書かれている。
また、夢窓国師の著した「夢中問答」によれば「或いはけしかず道心の起こりて、暫時のいとまもおしく、悟りのおそき事のなばかしきによりて、日夜に涙のこぼるる事のあるもの魔障なり(略)煩悩の生ずるを恐れて嘆き悲しむも魔障なり」と自分の修行の至らなさについて、強度の慙愧(慚愧ざんき=恥じる)の念を覚えることを悪魔によって身が滅ぼされるもとだ、といっている。これらはすべて修行の行き過ぎから起こる一つの障害について述べたものである。
大東流の場合、瞑想は稽古の始まりと終わるときに行う、その他行わないのは瞑想の行き過ぎを戒めるためである。

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