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秘伝・合気道 堀川幸道口述 鶴山晃瑞編 5

3弁慶の六法
大正3(1914)年の春、東京では満都の演劇ファンを興奮のるつぼにたたき込んだような一大事件が発生いたしました。
それは、大改修をしたばかりの純日本国宮殿様式を誇る歌舞伎座と、渋沢栄一など強力な財界人のバックを持ち近代建築の粋を集めた帝国劇場、旧態依然とした芝居小屋の運営を守る市村座(いちむらざ=歌舞伎劇場で江戸三座の一つ)、三者三様の背景を拠点とした興業政策が、共通の出し物である「勧進帳」をめぐって花々しく本家争いを展開することになった、からであります。

「勧進帳」は歌舞伎十八番の中で最も人気のある出し物となっていました。天保11(1840)年の七代目市川團十郎による初演以降、八代目、九代目團十郎が弁慶を演じていますが、九代目による明治32(1899)年4月の歌舞伎座舞台が最後の興業でした。この当たり狂言を最大の収入源としたい興業主等の思惑もあって、それぞれの立場における弁慶役者を誕生させ、同時に競演させるという、日本の演劇史上にかつてない、興業体制の存亡が賭けられた、醜い泥仕合とも言える一大興業合戦が展開されたのであります。
俳優自身についても、團十郎亡き後の弁慶役を当たり狂言とする役者は誰かということを世間に問うことであり、興業主等の思惑とともに競演俳優達の役者根性もからんで、まれに見る壮絶な宣伝戦となり、満都は大変な騒ぎとなりました。この時、互いに競演した俳優達は、
 歌舞伎座は、 弁慶 市村羽左衛門(十六代目)
        富樫 市川左団次(二代目)
        義経 中村歌右衛門(五代目)
 帝国劇場では、弁慶 松本幸四郎(七代目)
        富樫 尾上梅幸(六代目)
        義経 沢村宗十郎(七代目)
 市村座では、 弁慶 尾上菊五郎(六代目)
        富樫 中村吉右衛門(初代)
        義経 坂東三津五郎(七代目) でありました。

当時の新聞等によりますと、人気と演劇評論家達の演劇評を総合的に判断した結果、弁慶は幸四郎、富樫は左団次、義経は歌右衛門が大変よかった、とされています。後年、名優と言われた六代目菊五郎は同年代の青年俳優であった七代目幸四郎に弁慶役では負けたのであります。(弁慶は七代目幸四郎の当たり役となり生涯で1600回も演じたそうです。)
六代目菊五郎の弁慶役は市村座で演じたものが、最初で最後となりました。(続く)

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