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「迷惑をかけるな」の先にあるのは究極の自己責任社会だ#61

外出先のフードコートで目にしたこと。

子ども⇒兄弟でちょろちょろ動き回っている。
ママ「他の人の席の方に行くのはダメ。迷惑かけちゃうでしょ。わかった?」
子⇒対して聞いていない様子。

私だったらこんな風に声をかける。「こっち(自分たちがキープしたところ)の椅子に座ろうね。ご飯のあと、また遊ぼうね。」
もちろん私自身も上記のママと同じように隣席に行ってまで遊ぶのは良くないと思っている。でも声の掛け方はまるで違う。どのようなマインドセットかによって、声掛けは180°変わるものだ。

人に迷惑をかけるのは良くない

今日はこの言葉を拾い上げ、この先の社会はどうなっていくのか考えてみようと思います。


〇その声掛けは子どもではなく外に向いている

親が子どもに言ってしまう言葉の代表格ともいえるのが「人に迷惑をかけるな」です。少し前の調査結果ですが、母親の意識調査でどのような子どもに育ってほしいかという設問です。

上位3つはこちら。
①自分の家族を大切にする人
②友人を大切にする人
③他人に迷惑を掛けない人(65.6%)

という結果が出ています。この調査は東アジア5都市(日本、ソウル、北京、上海、台北)を対象にしていますが、日本以外の4都市はこの他人に迷惑をかけない人と回答した方の割合は、多くても24.4%。割合としては少なく、仕事で能力を発揮できる人とか、他人から尊敬される人が上位回答となっています。

この調査結果を見ても、子どもに対して迷惑をかけるなと言ってしまう大人(親)のマインドセットの差異が他都市と日本とに認められます。他都市の親は我が子を見ている。一方で日本の親は周囲の大人を見ているということが言えると思います。冒頭に書いたフードコートの事例。これは周囲の親に対しての潜在的なメッセージで、“私は子どもに対して注意している。それでもやめないのは子どもだから仕方がないですよね。”という責任回避が含まれていると思います。もう一度書きますが、大人が子どもをしっかりと見ているか。はたまた親としての自分の立場を守るために、周囲に向けてアピールしているかという大人のマインドセットの違いがあります。

このあとは、迷惑をかけないとはどういうことか。そして、その先にはどのような社会が待っているのか考えていきます。

〇自分を苦しめる呪文と自己責任社会の到来

人に迷惑をかけないように生きるとはどういうことなのか。
まず、この迷惑というキーワードですが、主観性がとても強いですよね。すべての人が同じ出来事に対して迷惑だと感じることはなく、人によって異なるものです。つまり、迷惑をかけないようにしようと思っても、相手が何に対して迷惑と感じるのか分からないので、相手の反応を伺いながら接するということが起こってきます。

○○をしたら相手はどう思うんだろう。

これを日本では思いやりと言われて刷り込まれてきました。相手の気持ちを重んじる。何かいいことのように聞こえますが、果たしてそうでしょうか。

私たちは一人ひとりが生まれた場所、育った環境が異なり、考えや価値観も違います。誰もが当たり前だと思うことです。私自身の人生は、一度きりしかなく誰のものでもなく私のもの。自分が何を思い、どのように行動するのかという選択権は私にあるはずです。だけどこの日本で幼少期から言われ続けることは、相手のことを考えているか?相手はどう思うか?です。

自己肯定感に関する調査があります。回答者の約65%の人は自分が他人からどのように思われているか気になると答えています。つまり、自分の人生なのに行動よりも先に相手にどう思われるかという気持ちがストッパーとなり行動に移すことができないでいるとも言えます。

私はこの文化は違うと思っています。まずは自分の気持ちに素直になることが大事ですね。とはいえ、私は30代ですが、バリバリ他人に迷惑をかけないように生きてました。子どもを授かり、私が思う“迷惑”をかけずに生きることができなくなりました。子どもが熱を出せば仕事を休む。夜に泣きさけべば隣家にも響き渡る。自分自身でコントロールできないことも起こり…今まではすみませんでしたと謝っていました。だけど相手が迷惑と感じていないのに謝られても逆に困るのでは?と思うようになり、謝罪ではなく感謝を伝えるようにしました。その方が私自身の気も楽ですし。

相手に迷惑をかけてしまうかもしれない。常にそのように思いながら生きていくと、人生はとても窮屈になってしまいます。自分がやりたいことも行動に移せないですよね。それが自分だけならまだいいのですが、深刻なのはほとんどの人がそういうマインドセットでいるということです。他者の視線が気になって動き出せない。困ったときに相談することすらできない。自分たちのことは自分たちで何とかするしかなくなってしまいます。本当に窮屈なことです。

今までの日本社会がそうだったように、家制度や儒教思想に私たちの生活が支配され、家族という最小単位のコミュニティの中だけで課題解決を図らなければなりません。問題が多様化する現代において、また核家族化が進んだり近所付き合いも希薄化してきたことも相まって、家族内で解決を図ることは無理ゲーです。ですが、多くの人がそういうマインドである以上は、家族で解決できないのはその家族に問題があるんだとか、誰かに相談すればよかったじゃんとか無責任なことを言いながら究極の自己責任社会へと向かっていくと思うのです。

今は大きな問題はなかったとしても、他者に対して自己責任を押しつける姿勢でいると、いざ自分たちに問題が起こったときにはもはや誰かを頼ることなんてできません。他人にどのように思われているかを気にしている以上は自分の行動がかなり制限されてしまいます。何があっても他者を否定(非難)することはやめておくべきです。

〇ともに生きる社会を目指す

究極の自己責任社会を迎える前にストップをかけていかなければなりません。人間の行動というのは環境によって呼び起こされるものですから、必要なのは仕組みを見直すことです。一人ひとりに教育し、マインドを変えてもらうというアプローチでは100年かかっても叶いません。というよりも、今の思考を変えるということは無理なことで、違うものへとアップデートさせていくという表現の方がしっくりきます。

大きな枠組みでは教育の見直しが必要です。現代の教育のように平均点を狙いに行くのではなく、一人ひとりに得意とすることを伸ばしていくこと。それとあわせて、できないことをできるようにすることよりも、自分一人ではできないことをどのようにしたらできるのかを考えて、埋め合わせてくれる人を見つけ、ともに課題解決を図ることを学ぶことだと思います。それが当たり前だよねという文化ができるくらいにやるべきだし、そのためには私たち大人がそういうマインドを持たなければなりません。

仕事で失敗したときに、どのようにして自分が傷つかないようにするかを考えるのではなく、しっかりと分析をしてネクストチャレンジをしていくこと。会社としてもそういう雰囲気を作っていかないといけませんが、まずは私自身がそういうマインドに切り替えて行動しています。会社の中で行動している人は目につきやすくなります。そうすると自然と依頼される仕事も増えるもので、そうなると自分にとっても会社にとってもプラスになるのかなと感じています。

ともに生きる社会というと聞こえは大きいですが、社会というものがあるのではなく、そこにあるのは社会に生きる我々一人一人でしかありません。まずは自分。そして家族、会社、地域へとじわじわとそういうマインドを広げたり、もしくはそういうマインドの人と関係を築いて、波及させていきたいと思います。聞けば当たり前のことなのですが、実はあまりできていないことでもあります。なのであえて強調しながら社内の会議でも発言するようにしています。じわじわと寛容な社会を目指してジブンの人生の歩みを進めていきます。


最後までお読みいただきありがとうございました。
それではまた。ゆうちゃんでした。


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